ハッピー昭和クラブ

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話
あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

「どん」の考察

当ブログの5月29日にハピイさんが、ご実家の「しげどん」のことを書かれておりました。僕の母方の実家が洋傘職人で、見習いの若い人のことをやはり「~どん」と呼んでいたそうです。「~どん」というのは、「~殿」が変化したものだそうで、軽い敬意の気持ちを示すのだそうです。「~殿」は元来は官職を持つ人に対してその官職に付けていたのが、次第に人名じたいに付ける用法が起こり、敬意が低下したので、「~殿」に代わって十分な敬意を表せる「~様」が盛んに使われるようになったそうです。一般的には、江戸時代後期から商家などで奉公人などを目上の人、または同輩が呼ぶときに使われるわけですが、鹿児島とかではそういった主従関係がなくても、一般的に使われていますね。「西郷どん」などと言うから、郷土の英雄として庶民から親しみを持たれているからでしょう。
映画では、「大番」シリーズ(1957~1958 千葉泰樹監督)で、ギューちゃんを支える相棒の仲代達矢が「新どん」でした。そして、「この広い空のどこかで」(1954 小林正樹監督)では、この広い空のどこかに-1024x434
佐田啓二・久我美子夫婦が営む酒屋を昔の使用人が久々に訪れます。大木実が演じるこの人は「俊どん」と呼ばれています。戦災で足が不自由になってしまった佐田の妹・泰子(高峰秀子)はみじめな姿を見せたくないと逃げ出しますが、俊どん、「足の一本や二本なくても泰子さんは泰子さんです」という言葉を残して田舎へ帰っていきます。引きこもり気味だった泰子はそれを聞いて、一歩踏み出す気持ちになり、俊どんを追っていきます。けっこうな山奥に、悪い足を引きずって歩いていくデコちゃんの姿が感動的です。
これが、カタカナで「ドン」となると、影の大物とか黒幕というイメージになりますね。今、話題の「都議会のドン」とか、「財界のドン」とか。この「ドン」が定着したのもおそらく映画「ゴッドファーザー」(1972 フランシス・フォード・コッポラ監督)のマーロン・ブランド演じたドン・コルレオーネからでしょう。そのヒットを受けて「日本の首領」シリーズ3作(1977~1978 中島貞夫監督)が生まれ、首領に<ドン>とルビがふられたのでした。スペイン語、イタリア語では元々、男性への敬称ですから(ドン=キホーテ、ドン=ファンなど)案外「~どん」と変わらないのかも。
(ジャッピー!編集長)
にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ にほんブログ村
おもしろいと思ったら、クリックしてください!

這い上がってきなさい

小林正樹監督は、昭和の大女優・田中絹代さんの「またいとこ」にあたります。絹代より7才年下の正樹は2年間の浪人生活を経て、早稲田第一高等学院に入学しますが、浪人時代に浴びるように映画を観ていて早くも映画監督を志しています。東京の大学に通っていた二人の兄とともに絹代を撮影所に見学に行ったりもしています。
早稲田大学を卒業した正樹は松竹の入社試験を受けることにし、絹代に推薦してくれるように頼みます。当時の大スター、幹部女優の田中絹代が会社に口をきいてくれれば自分の夢である映画監督に近づけると思うのも当然です。しかし、頼まれた絹代は、きっぱりと断るのです。「映画は実力の世界です。情実で入社しても力がなければ生きていけないのです。田中絹代の名前を出してはいけません。堂々と監督試験を受け、りっぱに合格なさい。それで落ちたなら、あきらめなさい」と言ったのです。正樹はその後、見事に合格したことを報告に行きます。すると、絹代は「おめでとう。でも、会社では田中絹代の親戚ということは絶対口にしてはだめよ」と、あくまで実力で監督の座を勝ち取りなさいと告げるのです。
言われた通り、絹代と親戚筋にあたることを一言も漏らさず、助監督生活を経て、新人監督の登竜門であるシスター映画(中編作品)「息子の青春」(1952)も好評、ダウンロード (4)
晴れて監督となった小林正樹は長編第1作「まごころ」(1953)で、絹代に出演を依頼。絹代も忙しいスケジュールを縫って特別出演したのでした。(小林作品唯一の出演作)こうしてチャップリンやフェリーニと並んで世界の十大監督に選ばれるほどの巨匠になったのです。親のコネで何の苦労もなく、俳優になって役をもらい、あげくは事件を起こすような息子を育てたどこぞの女優に聞かせたい話です。
(ジャッピー!編集長)
にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ にほんブログ村
おもしろいと思ったら、クリックしてください!

完全主義者たちの仕事

DA30-620
今日は、世田谷文学館に「生誕100年 映画監督・小林正樹展」を見に行ってきました。昨日、このブログで紹介した「あなた買います」(1956)の脚本を書いた松山善三とともに、木下恵介の助監督をつとめていた小林さん。当時、松竹ではスクリプターという職種を置かず、セカンド助監督がその役目だったそうですが、小林さんはワン・カットごとにキャメラのフレーミングやセリフをこと細かに記録し、さらにそれを台本の順に切り貼りするという技を編み出し、あとで編集するときにも大いに役立ち、木下監督にも褒められたそうです。その巻物(全長6メートル!)のようになった切り貼りカット表も展示されていましたが、その仔細に書きこまれた表を見ると、のちに監督になって「完全主義者」と呼ばれる萌芽を感じます。
初のカラー作品「怪談」(1965)では、自分で色彩設計まで手掛け、浮世絵からクレー、ゴッホ、ダリなど多彩な絵画や美術品、ファッション写真まで様々な画像を集め研究したそうで、その膨大なコラージュ資料が壁いっぱいに展示されていて圧倒されました。そして、小林さんと一緒に仕事した宮島義勇、戸田重昌、武満徹、彼らもとんでもない人たちです! 
兵隊にとられ、戦局が悪化し南方へ送られることになり、死を覚悟した小林さんが軍隊生活の合間に書き溜めたシナリオを「これだけは死の道連れにしたくない」と運を天にまかせ、住所だけ記し兵舎の洗面所に置いたのが、奇跡的に戦後、自分の家に届いていたというエピソードが感動的でした。そのシナリオの原本が展示されていて凝視しました! こういった経験があるから、「人間の條件」シリーズ(1959~1961)jni0008s_l
など魂のこもった作品になるわけだなあと改めて思いました。
京王線芦花公園駅から徒歩5分ほどのこの文学館は、よく映画関連の特別展をやってくれて今までも度々足を運んでいます。この「小林正樹展」のあと、9月16日から来年4月21日まで全面改装のため休館とのことですが、再開したらまた充実した企画を期待します。
ちなみに今年生誕100年を迎えた映画監督には、他に加藤泰、鈴木英夫がいます。いずれも僕の大好きな監督であります。  (ジャッピー!編集長)
にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ にほんブログ村
おもしろいと思ったら、クリックしてください!

佐田啓二VS伊藤雄之助 

anatakaimasu
ドラフト以前、選手獲得の自由競争時代、一番厄介だったのは選手の周囲に蠢く大人だったといわれます。(昨日紹介した後藤正治さんが書いた「スカウト」という本では「仲介者」と呼ばれています)前から面倒を見ている、親から頼まれている、いろいろな事を言いながら交渉に介入して甘い汁を吸おうとする輩です。
「あなた買います」(1956 小林正樹監督)では、そんな仲介者を伊藤雄之助が怪演します。伊藤が演じるのは、プロが狙う大学の強打者(大木実)の後見人と称する男。球団スカウトから接待を受け、札束を積まれ、のらりくらりと契約金をつり上げていきます。ある時は強気に出て、都合が悪くなると仮病まで使う食えない男です。伊藤に翻弄されながら交渉を続けるスカウト役の佐田啓二との演技のやりとりが滅法面白い! 佐田vs伊藤といえば、この映画の4年後、「いろはにほへと」(1960 中村登監督)ではダウンロード (3)
、詐欺まがいの青年実業家とそれを追求する刑事として対決。こちらでは伊藤刑事は賄賂を拒否する気骨を見せます。こちらにも出ている三井弘次が大木選手の兄に扮して、仲介者・伊藤にだけ儲けさせてたまるかと参戦する。さらに意外などんでん返しで映画は終わりますが、脚本は松山善三だけあって社会派テイストもまぶし、欲に憑かれた人間の狂態を体現する名優たちの緩急自在の演技合戦が絶品であります。
この作品の原作小説は中央大学のスラッガー・穴吹義雄をめぐる争奪戦をモデルにしていてます。穴吹は当時史上最高額の700万円で南海に入団します。当時の南海は西鉄とパ・リーグの覇権を争っていた頃で、有力選手を集めたかったのでしょう。立教大学の杉浦忠と長嶋茂雄に毎月、相当な額の「栄養費」を渡して両獲り確実と思われましたが、長嶋はちゃっかり読売に入団。もし、義理堅く南海に入っていたら、野村と一緒にNN砲を形成、パ・リーグの運命も変わっていたかもしれませんね。 (ジャッピー!編集長)












































にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ にほんブログ村
おもしろいと思ったら、クリックしてください!

カープ優勝おめでとう! 初優勝は1975年

カープ優勝おめでとう!
野球を知らない僕も何だかとてもうれしい!
ちゃんちゃこ がデビューした1975年にカープは初優勝を達成しました。
それで、そのことをいろいろ調べて投稿した以前の他のブログに記事
を載せてみます。
球団設立以来25周年目に初優勝して、今回もまた25年目の優勝!
何だかカープは25という数字に強い!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1975年のスポーツ界最大のニュースは広島カープが球団誕生以来25年目に初リーグ優勝したことでした。 
4ac8e6587212d6dedfc95a2c5f4c4e71
広島 原爆からの復興を目指してスポンサーのいない市民プロ球団の設立という、特異な形で広島カープはスタートしました。広島市を流れる太田川は鯉の産地で原爆で焼け落ちた広島城は鯉城と呼ばれていたことから、広島カープ(鯉)と名付けられたそうです。
広島カープは、スポンサーを持たないために極度の資金難で創設直後から存続の危機を経験してきました。そのためか、25年間優勝はありませんでした。
そんな広島カープが、奇跡のように最下位からリーグ優勝にまでのし上がった年が1975年です。映画のメジャーリーグみたいに
感動的なドラマですね。原爆投下から30年目の奇跡です。
9e22e2d7e6a453f8bf39149b1a381886
 
3年連続最下位だった球団をこの奇跡に導いたのは、1975年に就任した日本球界初のメジャーリーグ出身監督ジョー・ルーツ監督です。
168cd59fd2b8a42e819a95c139c71e55
 
ジョー・ルーツ監督は今までの紺色から闘魂を表す赤い帽子に変更しました。ここに赤ヘル軍団が誕生しました。
ジョー・ルーツ監督は「君達は勝つことによって広島を活性化させるという使命を持ってることを忘れるな!」と闘魂を打ち込んだと言われています。そんな彼もタイガース戦での判定を不服として審判に暴行を加えわずか15試合で辞任してしまいました。
それでもその魂は選手と古葉監督に注入され奇跡はおこりました。
1975年6月、初の首位奪取に成功して、赤ヘル旋風がおこりました。
8月には応援歌「それゆけカープ」
e6c1227c8ef39eb014b23291e84481e8
がレコード発売される盛り上がりのなか、10月15日後楽園での巨人戦に勝利して、リーグ優勝となりました。

(ちゃんちゃこ41) 
にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ にほんブログ村
おもしろいと思ったら、クリックしてください!
昭和お宝品評会

NEW!!お宝をご紹介いただけるメンバーを募集中です!
投稿へのコメントもお待ちしております!

きたさん
1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
ジャッピー!編集長
映画雑誌「ジャッピー!」を主宰する編集長
映画や昭和歌謡に底知れぬ造詣を示す昭和博士
ハピイ氏橋
昭和のあれやこれやをイラストにして解説。
独自の目線で昭和の面白さを掘り起こすイラストレーター
記事検索
ギャラリー
  • 小池一夫先生原作「エロス」と「ヴァイオレンス」
  • 横並び社会と「麻雀放浪記2020」のパンフレット
  • 横並び社会と「麻雀放浪記2020」のパンフレット
  • みんな真似した「月光仮面」(大瀬康一さん)
  • 追悼・兼高かおるさん 「遠く」を夢見たテレビっ子の頃
  • みんな何処に行ってしまうのだろうか
動画配信
上を向いて歩こう
関根忠郎の映画惹句術
看護婦さんの生活と信条
懐かしの昭和の物語 壱
懐かしの昭和の物語 弐
懐かしの昭和の物語 参
  • ライブドアブログ