ハッピー昭和クラブ

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話
あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

追悼・秋山道男さん 「若松プロ」から「無印良品」まで

昨日の当ブログで、現在公開中の「止められるか、俺たちを」(2018 白石和彌監督)について触れました。1960年代末から1970年代初頭あたりの「若松プロ」を当時、女性助監督として参加していた吉積めぐみさん(門脇麦さんが演じます)の視点から描いた作品です。images
当時の若松孝二監督作品のクレジットにはよく「吉積め組」と表記されていました彼女は惜しくも1971年に睡眠薬を服用、23歳の若さで亡くなってしまいます。映画は、めぐみがジャズ喫茶に所在無げにいるところにメガネの青年(タモト清嵐さんが演じます)が入ってきて、めぐみが「ねぇ、オバケ、ピンク映画の助監督って女でもできる?」と訊くところから始まります。この「オバケ」と呼ばれる青年は「秋山道男」さん。今年の9月19日に69歳でお亡くなりになりました。
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秋山道男さんは19歳で若松プロに参加、低予算のピンク映画を量産していた若松プロですから、在籍している若者たちは何でもやらされていて、秋山さんも脚本、助監督だけでなく俳優としても作品に関わっています。「オバケ」という愛称も、初めて出演した「性遊戯」(1969 足立正生監督)に「オバケ」という役で出ていたことからでしょうか。ちなみに同映画にやはり助監督だった小水一男さんが「ガイラ」という役で出ていまして、小水さんも仲間内では「ガイラ」と呼ばれていました。当時まだ童貞だった秋山さんは助監督として裸の女性の局部を間近に見て「女体とはこういうものか……」と思ったそうです。
特に秋山さんが才能を発揮した?といわれるのが「万引き」です。当時、アナーキーな気分に満ちていた「若松プロ」では「調達」の名の下でレコードや本を万引きしていて、「止められるか、俺たちを」の中にも、秋山さんがめぐみをレコード屋に連れていって「助監督の仕事を教えてやるよ」というシーンがありました。秋山さん、「新宿泥棒日記」(1969 大島渚監督)では万引き青年を演じた横尾忠則さんに「万引き」の演技指導をしたそうです。「秋山未知汚」という名前で出演した作品では、テロリストの少年を演じた「性賊・セックスジャック」(1970 若松孝二監督)が代表作ですかね。81HvMdyLVUL._AC_UL320_SR226,320_
また、「天使の恍惚」(1972 若松孝二監督)で横山リエさんが歌った「ここは静かな最前線」の曲を作ったのが秋山さん(映画の中では横山さんの隣りでギターを弾いてます)で、音楽、美術など様々な面で若松作品に関わりました。

「止められるか、俺たちを」の中で禁止条例にひっかかる「女学生ゲリラ」(1969 足立正生監督)のポスターも秋山さん作)
こうした若松プロで発揮したマルチな才能が、のちに「無印良品」のプロデュース、「チェッカーズ」の総合プロデュース、内田春菊さんの発掘(「春菊」の名付け親でもあります)、荒戸源次郎さんの映画などのプロデュース……と多方面に渡る活躍に繋がっていくのでしょう。アングラ文化からメイン・ストリームまで時代の文化を作り上げた秋山道男さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(ジャッピー!編集長)


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若松プロとその時代を描いた「止められるか、俺たちを」

一昨日の当ブログで触れましたが、若松孝二監督が「反原発」の映画を作ろうと「東電内で主人公が死ぬ」という具体的な展開も考えていたら、ある大手の映画会社からストップがかけられ、実現しませんでした。
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若松孝二監督は2012年10月17日、交通事故で亡くなりますが、これも「権力」側に殺されたのではないかという噂が出たほどです。たしかに「反体制的」で影響力のある人に対して、「権力」というのはそれぐらいのことはやりかねないですからね。サウジアラビアのカショギ記者の殺害など見れば明らかです。
若松孝二監督は「東日本大震災」の被害があった宮城県生まれ、農業高校1年のときに退学になり家出して東京に出てきます。そこで土方やお菓子屋の小僧などしていましたが、新宿でヤクザの仲間になりある日警察に捕まってしまいます。半年ほど拘置所に入れられ、そこで警察にひどく苛められたそうで、このときの怨みが若松監督の「反権力」の原点になっているようです。
1960年代末から70年代初めにかけて先鋭左翼的な映画を連打していた若松監督について、当時「若松プロ」にいた人の中には「あの人は本も読まない、映画も観ない、文章も書けない。そんな映画作家があるだろうか」などと語る人もいます。身近にいた人の証言だからそうなのでしょう。しかし、若松監督の「反体制」はイデオロギーではなく、もっと原初的な怒り、下層の生活の中で実感したルサンチマンだったように思います。
少し前に、「若松プロ」とそこに集まった若者たちの青春を描いた映画「 止められるか、俺たちを」(2018 白石和彌監督)を観ました。

その中でも若者たちが「若松さんには思想がない」みたいなことを言うシーンもあったし、「処女ゲバゲバ」(1969 若松孝二監督)のタイトル命名が大島渚監督だとかけっこう知られたエピソードがよく再現されていました。「処女ゲバゲバ」も含め数々の若松監督作品の映像が断片的に挿入されたり、「ゆけゆけ二度目の処女」(1969 若松孝二監督)の有名な屋上シーンの撮影現場再現などもあり、懐かしかったです。

学生たちのデモが駆け抜けていく映像も出てきましたが、今や政治的デモどころか、東京医科大の不正入試にも立ち上がらない(←山田洋次監督も嘆いていました)学生、若者たちはハロウィンで仮装して渋谷に集まり……時代は変わりました。
若松監督が今、生きていたらどんな映画を撮っていたかなあ。若松さんは内田裕也さんを主演にすえて映画を作っていて、「水のないプール」にはチラッと沢田研二さんも出ていました。
そんな縁もあるから、ジュリーと組んで「反原発」映画を実現してほしかったなあ! もちろん主題歌はジュリー歌う「核なき世界」で……と夢想してしまいます。 (ジャッピー!編集長)
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秋の名曲、ジュリー作曲の「コバルトの季節の中で」

ここ数日、ようやく秋らしい天気になりました。少し空気がひんやりとしていて、空がくっきりと青いこの季節に聴きたくなる曲が、沢田研二さんの「コバルトの季節の中で」です。ダウンロードkobaruto
この曲は1976年にリリースされましたが、沢田研二さんが作曲された初のシングル盤です。そして、作詞は小谷夏さん。聞きなれない名前ですが、実はこれ、TVディレクター・久世光彦さんのペンネームです。
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久世さんといえば、ジュリーへの思い入れが強い人で、当ブログでも何度かエピソードを紹介しています。(当ブログ2017年3月9日「悪魔のようなあいつ ジュリーが脱ぎまくる!」をご参照ください) 久世さんが書いた歌詞、♪髪型が変わりましたね~ 秋風によく似合いますね~ と始まり、「~でしょう」「~ませんか」という言葉つかい、孤独な秋の風景がちょっと感傷的で素晴らしいのです。たしか、沢田さんが暴力事件で謹慎したあとにリリースされた曲で、何か久世さんのジュリーを応援する思いがこめられているような気がします。♪誰だって過去はつらいですね だから明日のこと話してみませんか~ というところとか。派手なメイクや衣装で歌う曲も良いですが、こういった穏やかな曲もいいんです! ジュリーの作ったメロディもよくマッチして本当に名曲であります。
さて、ジュリーといえば、コンサートのドタキャン騒動で「集客が原因」ということで謝罪もありました。「契約」の細かいところは分かりませんが、僕はそれだけの問題ではないと思います。近年、ジュリーは「憲法」や「反原発」をテーマにした曲も歌っていますから、ジュリーは間違いなく、政権にマークされているでしょう。「さいたまスーパーアリーナ」があるさいたま市では公共施設での政治的活動を禁じる条例が厳しいとのことで、コンサート会場周辺でよく「署名活動」をするグループとかが高圧的に排除されたり、不当に逮捕されることを心配し、ジュリーは配慮したのかもしれません。
また、「スーパーアリーナ」の株主には「東京電力」が入っているのも関係しているかも。というのは、前に若松孝二監督が「反原発」の映画を作ろうとして「東京電力で主人公が死ぬ」設定だったそうです。ところが、ある映画会社の方から「それだけはやめてくれ。そうでなければ撮ったらダメだ」と言われたのです。その映画会社のビルに東電が入っているからです。そんな圧力で映画は撮れなかったそうですから、今回もありえない話ではないですね。
ともかく、ジュリーには権力や雑音に負けず、自分の歌を貫いてほしいです。ジュリー、頑張れ!
(ジャッピー!編集長)
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金田四兄弟(400+0+0+128)と長嶋親子

昨日の当ブログで書いたように、金田留広さんは東映フライヤーズ入団後4年間で77勝!をあげていましたが、1973年にははじめて二ケタ勝利に届かず(7勝)、その年、兄の金田正一さんが監督に就任した「ロッテには投げにくい」と言ってトレードされ、ロッテに移籍、1974年は優勝に貢献する活躍をみせます。
留広さんは、名前から分かる通り、兄弟の末っ子で四男です。正一さんと留広さんの間にいる2人の兄弟も、実はプロ野球選手になっています。次男の金田高義さんも投手で1958年に国鉄スワローズに入団、60年まで在籍して一軍の実績なし。また、三男の金田星雄さんも投手で60年入団でこちらも一軍にはあがれないまま2年間だけ在籍しました。つまり、1960年にはスワローズに金田三兄弟が在籍していたわけです。
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(留広さんはちょっと年が離れていて60年当時は中学生、さすがに4兄弟同時在籍とはなりませんでした)この高義さん、星雄さんの入団については、もちろん正一さんのプッシュがあったのでしょう。弱小チーム・国鉄スワローズでほとんどの勝ち星をあげるぐらいのエースだった金田正一投手のワンマンぶりは「天皇」と言われるほどでしたから、弟たちを入団させるぐらい簡単だったと思います。一説には、国鉄球団側が金田正一の年俸を抑えるために弟さんたちの入団を持ち掛けご機嫌をとったとも言われているようです。ちなみに、留広さんが広島カープに移籍した1979年、金石昭人投手がドラフト外でカープに入団しています。金石さんは留広さんの姉の子ども(つまり正一さん、留広さんの甥っ子)で、この入団に際してもカネやんのカープへの口利きがあって、留広さんに面倒みるように言ったそうです。のち、金石さんは一軍で活躍する投手に育ちました。
一方、国鉄に入った弟さんたちの気持ちはどうだったでしょう。大投手を兄に持って、同じチームに入って、周りからの目とか気にならなかったかなあ。まさか兄と同等の活躍が出来るとは思わないまでも、1勝もできない投手が「支配下選手」の枠を埋めているという後ろめたさ? あるいはプレッシャーはどれほどだったのだろう? 留広さんもロッテ移籍1年目こそ16勝あげましたが、以後は6勝、3勝、2勝……と下降していったし。
西武ライオンズにいた松沼博久・雅之兄弟なんかは、球団創設年に同時に入団しているからお互い心強かったと思いますが、金田兄弟みたいに兄がすごい実績をあげていると辛いんじゃないかと思います。
そういえば、長嶋茂雄監督のジャイアンツに移籍した一茂選手なんかも辛かったかなあ。こちらは「兄弟」でなく「親子」だけど、同じサードを守って、どうしたって比べられるし。G20141014009098400_view
れとも子どもの頃から「スーパースターの息子」という立場で見られることに慣れていたのか。国鉄の金田兄弟の時代と違って、一茂さんはれっきとしたドラフト1位でヤクルトに入団しているのだから、それなりに野球の素質はあったのだと思います。もし、長嶋家に生まれていなければ、その才能が開花していたのか……とか想像してしまいます。
僕も小学校のとき、兄が優秀で児童会長とかやっていたりしたので、先生たちから「君があの子の弟か」といらぬ期待の目で見られてイヤだった記憶があります。だいぶスケールの小さい話ですが……。
(ジャッピー!編集長)






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追悼・金田留広さん

昨日に続いて、当ブログ9月21日にハピイさんが紹介された「1970年(昭和45年)のセ・パ両リーグの選手個人成績」をご覧ください。昨日も書いたように、今とは格段に違う投球回数のピッチャーが並んでいますが、パ・リーグの防御率5位の投手もこの時点で312イニングを投げ、23勝をあげています。この好成績をあげた投手・金田留広さんが10月2日に亡くなりました。ダウンロードkaneda


金田さん(東映)はこの1970年は最終的には316イニングを投げ、24勝をあげました。それでも、最多勝は逃しています。(ロッテの成田文男投手が25勝で獲得) ご存じ、400勝投手の金田正一さんの弟である留広さんは1968年のドラフト会議で4位指名で東映フライヤーズに入団。1年目の1969年に18勝をあげました。このルーキーの年、オールスター戦に選出され、登板したときにセ・リーグが金田正一さんを代打で出して、「兄弟対決」という見せ場で留広さんが打ち取ったのは記憶しています。
翌年(1970年)が前述の通り24勝、71年15勝。そして72年には20勝で念願の最多勝に輝きますが、73年には7勝とガクッと成績が下がります。というのも、73年に正一さんがロッテ監督に就任し、兄弟が敵同士になってしまったのです。たしか留広さんが「ロッテ相手には投げづらい」という発言をしたとかで、正一監督もトレードを持ち掛け移籍、ロッテで「兄=監督・弟=選手」が成立します。のちの長嶋一茂選手がヤクルトからジャイアンツに移籍、「長嶋親子が監督・選手」となった先駆ですね。ただ、一茂さんは活躍できませんでしたが、留広投手は見事に復活、16勝をあげロッテの優勝に貢献します。以後は成績も下降、1978年金田正一監督の辞任に伴い、留広さんも広島カープに移籍します。お兄さんの「監督就任」に左右された選手生活の中盤でしたが、優勝したことで、大投手・正一さんんも獲っていないMVPに輝いたのですから良かったのでしょう。
カープでは、池谷さん、福士さん、山根さん、北別府さん、中継ぎに大野さんが台頭、絶対ストッパーの江夏さんと強力投手陣が揃っていたこともあって、留広さん
はあまり出番がありませんでした。が、たまにローテーションの谷間に先発すると、5~6回をきっちり投げ、今でいう「試合を作って」79年4勝1敗、80年4勝3敗をあげました。両年、カープは優勝、2連覇しますが、近鉄バファローズと激闘を繰り広げた日本シリーズでは留広さんは登板することもありませんでした。しかし、かつての20勝投手で最多勝やMVPを獲ったベテランがくさることなく、ペナントレースで与えられた場面で懸命に投げている姿はとても印象に残っているのです。当時あまりパ・リーグの試合がTVで放映されていなかったせいもあり、僕にはこの晩年のカープ時代の留広さんが印象的なのです。往年のスピードもなく、ほとんど直球とカーブだけなんですが、度胸満点のピッチングで抑えていました。
今年は衣笠祥雄さん(当ブログ7月18日もご参照ください)、そして金田留広さんとカープOBが鬼籍に入られました。昨日、1勝をあげた
カープ、是非「日本シリーズ」を制してほしいですね。小気味いいピッチングで128勝をあげた金田留広さんのご冥福を心よりお祈りいたします。(ジャッピー!編集長)

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きたさん
1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
ジャッピー!編集長
映画雑誌「ジャッピー!」を主宰する編集長
映画や昭和歌謡に底知れぬ造詣を示す昭和博士
ハピイ氏橋
昭和のあれやこれやをイラストにして解説。
独自の目線で昭和の面白さを掘り起こすイラストレーター
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