「ラ・ラ・ランド」(2016 デイミアン・チャゼル監督)には、冒頭、エマ・ストーンさんを含む4人の女性が闊歩するシーンで
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「肉体の門」(1964 鈴木清順監督)を引用している他、ラスト近くには「東京流れ者」(1966 鈴木清順監督)を彷彿させるシーンもあります。何の予備知識もなく観に行ったら、ちょうど亡くなったばかりの清順監督へのオマージュを感じて狂喜、「絶対アカデミー賞獲るだろう!」と思ったのでした。(まだアカデミー賞の発表前でした) 結果は作品賞を逃したのですが、この「映画愛」に満ちたミュージカルに「映画」の本質を見る思いでした。
つまり、映画という夢の世界では、時間を超え、空間も越えることが出来るということです。あり得たかもしれない過去を描出することもできるし、恋の喜びに宙に浮かぶことだってできるのです。スクリーンに映し出された世界に身を委ねれば、目に見えぬものだって色や形をもって現れるのです。
「東京流れ者」のラストで渡哲也さんが、自分を裏切ったボス(北龍二さん)と対決する真っ白な空間(←「ラ・ラ・ランド」に引用)など、img_5
この世のものとは思えない、普通にはありえない場所です。あるいは、時折はさまれる「枯れ木」のショットなど。だけど、それらが渡さんの「孤絶のヒーロー」とも言うべきスター・イメージを鮮やかに焼き付けるのです。「映画」は、その出自において「画が動く」ことで人々を驚かせ、魅了したメディアでありました。そんな原点を考えれば、清順監督はまず、「アクションの場」ということを優先して、知恵をしぼり、技巧を駆使して映画作りをしていたのだと思います。
たしか、清順監督は小津安二郎監督作品について、「おはようとか、お久しぶりとか、座って台詞を言ってるだけで、動きが全くない。これ、映画といえますかね」という感じで批判していたと思います。大衆娯楽映画の監督を自認する清順さんにとっては、「映画とは歌と踊りとアクション」なのです。時に、シュールとか、飛躍があると言われる(日活上層部には「わけのわからない映画を作る」と解雇されてしまいます)けれど、少々ストーリーの運びを無視しても「どのように映像で見せるか」ことに注力したのでしょう。
先日、「ヒッチコック/トリュフォー」(2015 ケント・ジョーンズ監督) という「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」(晶文社)という本になったインタビューのドキュメンタリーを観たら、index
ヒッチコック監督が「少々辻褄が合わなくても、それより大事なことはただひとつ、スクリーンにどう映るかということだ」というようなことをおっしゃっていました。清順監督と共通するものがあると思いませんか。 また、「よく論理的一貫性がないと批判されたが、それがまさに夢のロジックなのだ」とも語っていて、映画という一種の夢の本質をついていると思いました。
(ジャッピー!編集長)
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