ハッピー昭和クラブ

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話
あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

2017年11月

もし裕ちゃんが東宝に入っていたら

東宝の助監督部などを紛糾させた「若い獣」(1958 石原慎太郎監督)は、特に慎太郎さんの才気が感じられるというほどではなく、プログラム・ピクチャーの1本としてまあ普通に面白く観れる作品という感じでした。藤本真澄さんと共同プロデューサーをつとめた金子正且さんは「まあ、誰でも監督って出来るんだなと思ったよ。ボクでも出来るんじゃないかなって」と当時を振り返って言います。これは、周りのスタッフの技術が支えたことも大きいと思います。長年、撮影所で叩き上げた職人たちが集まれば、ある程度のモノは出来てしまうのだと思います。さらに監督独自の作品になるには監督の腕が大きな意味を持つと思いますが。ともかく各映画会社の技術の蓄積がそれぞれの会社の「色」を作りだしたのです。伝承、ということですね。昔は、東宝なら東宝、大映なら大映、松竹なら松竹……といったそれぞれの会社のカラーがありましたよね。そういった「メイン・ストリーム」があったのですが、今は1本ごとに「製作委員会」が作り、映画会社もその一部で配給するみたいな形態ですし、自主映画出身や、芸人など異業種からの監督も多くなり、会社のカラーも伝統もなくなって、いわば本流がなくオール支流です。昭和の映画を楽しんだ人間としてはちょっと寂しいです。また、一人のスターの存在が会社のカラーを決定づけるということもあります。
ご存知のように、水の江滝子さんが目をつけて日活に入社した石原裕次郎さんがいい例です。
昨日の当ブログで書いたように、慎太郎さんは元々、東宝の入社試験を受けていたりして東宝との縁が深かったわけですが、弟の裕次郎さんも最初は東宝に猛烈に売り込んだそうです。慎太郎さんは「弟は背も高くてカッコいいし、歌も上手いし絶対スターになる」と猛プッシュしましたが、藤本プロデューサーは断り、上原謙さんの息子・加山雄三さんを売り出します。
もし藤本さんが裕ちゃんを東宝に入れていたらどうなっていたでしょう。「太陽の季節」(1956 古川卓巳監督)にチラッと顔を見せたあと主演した「狂った果実」(1956 中平康監督)で鮮烈な印象を与えた裕次郎さんですが、その次の作品は「乳母車」(1956 田坂具隆監督)でした。「太陽族映画」の直後には一転、石坂洋次郎原作の文芸映画で好青年を演じていますから、「青い山脈」(1949 今井正監督)を大ヒットさせた藤本さんとは相性が良かったかもしれません。あるいは、岡本喜八監督による裕ちゃんのアクション活劇があったかも、黒澤明監督による三船敏郎さんと裕ちゃん共演映画があったかも……と妄想は広がります。東宝、日活も違う歴史を刻んだかもしれません。
慎太郎さんも弟を主演に監督作を撮りたいと思っていたんじゃないでしょうか。実際、「若い獣」も当初、慎太郎さんは裕次郎さん主演でやりたいと言って交渉したのですが、日活がドル箱スターの裕次郎さんを貸し出すわけもなく、久保明さん主演となったそうです。 (ジャッピー!編集長)
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「若い獣」で石原慎太郎監督デビュー

昨日の当ブログで書いたように、石原慎太郎さんに監督作を撮らせるというので、東宝の助監督やスタッフたちが猛反発。長年苦労している助監督からしたら、有名人というだけで現場も知らない奴が横からポンと監督になるなんて理不尽の極みです。事態をおさめるために藤本真澄プロデューサーは「これからは大いに若手助監督を登用し、年間二人は監督に昇進させる」と約束します。そして、慎太郎監督作品の方は東宝の「砧撮影所」は使わず、外部のスタジオで撮影、スタッフも管理職(つまり会社側)の人たちを動員してクランクインとなりました。
その「若い獣」(1958 石原慎太郎監督)は、分厚い眼鏡をかけ廃人のようなススム(久保明さん)が、佐藤允さんが試合をしているボクシング会場に来るところから始まります。wakaikemono
周りから「あいつは昔はいい選手だったのにな」という声が聞こえてきて回想に入っていきます。久保さんは画工でしたが、練習に行っていたジムで素質を見出され、会長(河津清三郎さん)、コーチ(浜村純さん)の勧めで新人戦に出場、以後順調に勝ち進みます。(一戦目のレフュリー役が慎太郎でした) 久保さんの父(東野英治郎さん)も元ボクサーで、そのせいか体を壊して寝たきりで、最初は久保さんがボクサーになることに反対してますが、勝ち始めると対戦相手を偵察したりノッてきます。
久保さんは隣りの家に住むユミ(団令子)という恋人がいます。テレビの部品工場で働き、貧しい家を支えていますが、河津さんに紹介されてキャバレーに勤めるようになると派手になっていきます。女工時代から「ススムさんがチャンピオンになったらお金持ちになれるわね」みたいなことを言っていたので兆候はありましたが、純真そうだっただけに大変貌です。おまけに河津さんと関係を持ってお店でも公然の仲になります。ススムがこのことを問い詰めるとユミはうまくごまかします。このあたりの団さんの悪びれない小悪魔ぶりも見ものです。ススムは体が成長し、コーチも「もう無理だからライト級にあげましょう」と進言しますが、有力選手がいるライト級よりフェザー級にとどまった方がチャンピオンになれると踏んだ河津さんはススムに過酷な減量を強いるのです。とにかく、河津さんは女は奪う、ススムは利用するだけするという本当に悪すぎます! そして迎えたタイトルマッチで壮絶な打ち合いの末、敗れます。タオルを投げるのも遅れ、ススムは脳をやられ記憶を失います。父親の東野さんんも車に轢かれ亡くなります。
ここで冒頭に戻り、佐藤允さんの勝利を祝うパーティが開かれています。そこでボーイをしているススムがマイクコードに足を引っ掛けて転倒、急にボクサーの記憶が甦り、狂ったように叫びだします。佐藤さんは「あいつは負けたんだ。俺は勝てばいいんだ。ボクシングとはそういうものだ」と言って映画は終わります。全く救いのない物語です。慎太郎さんのこの映画で言いたかったことは何でしょう? この映画を観たのはずいぶん昔のことでしたが、既に政治家になっている石原慎太郎という人物から遡って考えたせいか、「実力主義」「弱者は結局敗者」ということなのかという印象が残ったのでした。   (ジャッピー!編集長)
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若大将と青大将のネーミングの秘密

昨日は監督や脚本家のペンネームについて書きましたが、今日は「役名」の由来の話。11月12日から16日の当ブログで「若大将シリーズ」について書いていますが、加山雄三さん演じる「若大将」は「田沼雄一」という名前になっています。ファースト・ネームは長男の設定なので「雄三」を「雄一」としたのですね。では姓の「田沼」はどこから来たのでしょう。藤本真澄プロデューサーphoto-fujimoto
から企画担当を任され、脚本を書いた(笠原良三さんと共作)田波靖男さんの「タナミ」から「タヌマ」とつけたんじゃないかなと推測できます。
そして、田中邦衛さんが演じた「青大将」というネーミングは藤本プロデューサーが思いついたそうです。何でも藤本さんは蛇が大嫌いで、その直前に黒澤明監督が「青大将」という題名の企画を持ち込んだところ「題名を変えろ」と言ったほどだったそうです。ちなみにこの企画は「椿三十郎」(1962 黒澤明監督)となります。おまけに藤本さん、「青大将みたいな顔した奴がいただろ」と、何本かの東宝映画に脇のチョイ役で出ていた田中邦衛さんを抜擢したのですから、さすがの慧眼です。
大企業の社長のドラ息子「青大将」の本名は「石山新次郎」といいます。201109032
このネーミングは「石原慎太郎」にちなんでいます。東宝では「若大将シリーズ」が始まる3年前、石原慎太郎さんが監督作を撮っています。「若い獣」(1958 石原慎太郎監督)というボクシングを題材にした作品です。原作、脚本ももちろん石原さんです。
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実は石原さんは一橋大学時代に東宝の入社試験を受けて合格(同大学で同期合格したのが西村潔さん)したのですが、「太陽の季節」で芥川賞を獲得、一躍時代の寵児となり東宝に入らず作家になったのです。東宝とは縁があるとはいえ、いきなり外部からやって来て監督をやるのですから、東宝の助監督陣は面白くありません。当時は、それこそ雑巾がけから始まってコツコツと助監督修業をして監督昇進を目指すのです。10年かかるなんてことも当たり前の世界です。そこに有名な作家だからと素人が監督デビューとなるのですから、助監督会や撮影・美術などの技師会が反対運動を起こし、社内は大騒動になったのです。そんなことがあったので、「石原慎太郎」をもじった「石山新次郎」を若大将の敵役の金持ちのワガママ男の名前にしたのでしょう。  (ジャッピー!編集長)

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ジェームス三木さん、藤田敏八さん、そして相米慎二さん、ペンネームの謎

「ジェームス三木」という名前の由来には諸説あるようです。三木さんが前座をつとめていたデイック・ミネさんが、名付け親であるとか、「税務署行き」(=ゼ―ムショユキ)をもじっている(←ちょっとムリがあるなあ……)という説もあります。興味深いのは、小津安二郎監督が戦前に自作の原案等に変名として使った「ジェームス・槇」と似ていることです。のちに脚本家となる運命が名前に宿っていたかのようです。いずれにしてもテイチク・レコードは同タイプの「フランク永井」さんの対抗馬として売り出そうとしてつけたのでしょう。
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そして、三木さんの俳優座養成所時代の同期生、藤田敏八さんの本名は「藤田繁夫」です。ところが、監督デビュー作「非行少年 陽の出の叫び」(1967 藤田繁矢監督)で、完成した作品を試写で見ると「藤田繁矢」となっています。どうやらタイトル文字を書く人が「夫」を「矢」と書き間違えたようです。気がついたプロデューサーが飛んできて藤田さんに謝ります。せっかくの記念すべき監督第1作で監督名を間違えたのですから申し訳ない気持ちだったのは当然です。ところが、藤田さん、「それも面白いじゃないか」と気にしません。さらに、その後、藤田さんが交通事故を起こし顔中血だらけで帰ってきたことがあったのです。それで占いに凝っていた当時の奥さんが「名前が悪い」と、病院で抜糸してもらった日に「繁」から「糸」を抜いて「敏」とし、「矢」も末広がりの「八」に変えさせたそうです。結果的に「繁夫」→「繁矢」→「敏八」となったのです。たしかに、その後の監督としての活躍を見ると改名のご利益があったのかもしれません。
名前の話でもうひとつ。三木さんと藤田さんが衝突した「赤い鳥逃げた?」(1973 藤田敏八監督)に
フォース助監督でついたのが相米慎二さん。
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それまでテレビ映画の現場にいた相米さんを長谷川和彦さんが引っ張ってきて、その後、日活ロマンポルノの助監督もつとめます。「女高生100人 ㊙モーテル白書」(1975 曽根中生監督)では脚本にも加わっていますが、相米さんのペンネームが「杉田二郎」なのです。「ジローズ」(当ブログ11月17日に記載)の杉田二郎さんと同じ名前をペンネームにしたのは何故か、当時、長谷川和彦さんも理由をきいたのですが、相米さんは「ま、相米って名前は珍しいし……」とモゴモゴ言うだけで本当のところはわからなかったそうです。長谷川さんは、相米さんは学生運動をやっていたのでいろいろあったのだろうと推測しています。 
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 (ジャッピー!編集長)
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脚本家と監督の死闘

昨日の当ブログで書いたように、「赤い鳥逃げた?」(1973 藤田敏八監督)でせっかく脚本家と監督として再会した俳優座養成所同期生のジェームス三木さんと藤田敏八さんは大喧嘩となってしまいます。藤田監督には脚本を「いじる」クセがあったようで、この翌年、「赤ちょうちん」(1974 藤田敏八監督)では、中島丈博さんの脚本(共作は桃井章さん=桃井かおりさんの兄)のナマ原稿に藤田さんが無断で手を加え、それも「テニヲハ」まで細かく直されていたので、中島さんは大激怒。大きな紙に「東大卒の低能監督・藤田敏八、シナリオ改悪魔、反省しろ!」とマジックで大書し、日活撮影所の食堂の一番目立つ所に貼り付けたそうです。思い切ったことをするもんだと驚かされますが、シナリオライターにとっては苦労して一字一句搾り出して書いた「我が子」のような作品を勝手に変えられてしまうのだから気持ちはわかります。その後、完成した映画「赤ちょうちん」を観た中島さんは、その出来に感服し「よかった。喧嘩した甲斐があった」と述べていますが、以後は藤田監督と仕事をすることはありませんでした。

ちなみに藤田監督と喧嘩したジェームス三木さんも中島丈博さんも後に映画監督をなさっています。(「善人の条件」(1989 ジェームス三木監督)、「郷愁」(1988 中島丈博監督)、「おこげ」(1992 中島丈博監督))やはり、自分の脚本を監督に変えられた恨みや欲求不満が、いつか自分の思い通りに映像化したいという方向に向かわせるのでしょうか。
脚本家と監督といえば、有名な話があります。「仁義なき戦い」(1973 深作欣二監督)のシナリオを笠原和夫さんが書きあげて、
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監督には工藤栄一さんがいいと思っていたそうです。他に中島貞夫監督の名前もあがる中、俊藤浩滋プロデューサー(藤純子さんの父上)が深作さんを強く推してきて、笠原さんは「深作が何と言ってきても俺は一語一句直さない」という条件を出して了承したそうです。以前に「顔役」(1965 石井輝男監督)という笠原和夫さんが書いた脚本を、当初深作欣二さんが監督することになっていて、深作さんが脚本直しをしたところ笠原さんと意見が合わず、とうとう降板し石井輝男監督に変更になったという経緯があったのです。
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笠原さんにしてみれば、渾身の脚本をまた引っ掻き回されてはたまらないという思いだったのでしょう。それを聞いた深作さん、「脚本通り撮る」と約束し監督に起用され、あの名作が誕生したのです。脚本家と監督のヒリヒリした緊張関係、それも傑作を生みだす要素なのかもしれません。  (ジャッピー!編集長)
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1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
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映画雑誌「ジャッピー!」を主宰する編集長
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