ハッピー昭和クラブ

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話
あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

2018年10月

秋の名曲、ジュリー作曲の「コバルトの季節の中で」

ここ数日、ようやく秋らしい天気になりました。少し空気がひんやりとしていて、空がくっきりと青いこの季節に聴きたくなる曲が、沢田研二さんの「コバルトの季節の中で」です。ダウンロードkobaruto
この曲は1976年にリリースされましたが、沢田研二さんが作曲された初のシングル盤です。そして、作詞は小谷夏さん。聞きなれない名前ですが、実はこれ、TVディレクター・久世光彦さんのペンネームです。
ダウンロードkuzr
久世さんといえば、ジュリーへの思い入れが強い人で、当ブログでも何度かエピソードを紹介しています。(当ブログ2017年3月9日「悪魔のようなあいつ ジュリーが脱ぎまくる!」をご参照ください) 久世さんが書いた歌詞、♪髪型が変わりましたね~ 秋風によく似合いますね~ と始まり、「~でしょう」「~ませんか」という言葉つかい、孤独な秋の風景がちょっと感傷的で素晴らしいのです。たしか、沢田さんが暴力事件で謹慎したあとにリリースされた曲で、何か久世さんのジュリーを応援する思いがこめられているような気がします。♪誰だって過去はつらいですね だから明日のこと話してみませんか~ というところとか。派手なメイクや衣装で歌う曲も良いですが、こういった穏やかな曲もいいんです! ジュリーの作ったメロディもよくマッチして本当に名曲であります。
さて、ジュリーといえば、コンサートのドタキャン騒動で「集客が原因」ということで謝罪もありました。「契約」の細かいところは分かりませんが、僕はそれだけの問題ではないと思います。近年、ジュリーは「憲法」や「反原発」をテーマにした曲も歌っていますから、ジュリーは間違いなく、政権にマークされているでしょう。「さいたまスーパーアリーナ」があるさいたま市では公共施設での政治的活動を禁じる条例が厳しいとのことで、コンサート会場周辺でよく「署名活動」をするグループとかが高圧的に排除されたり、不当に逮捕されることを心配し、ジュリーは配慮したのかもしれません。
また、「スーパーアリーナ」の株主には「東京電力」が入っているのも関係しているかも。というのは、前に若松孝二監督が「反原発」の映画を作ろうとして「東京電力で主人公が死ぬ」設定だったそうです。ところが、ある映画会社の方から「それだけはやめてくれ。そうでなければ撮ったらダメだ」と言われたのです。その映画会社のビルに東電が入っているからです。そんな圧力で映画は撮れなかったそうですから、今回もありえない話ではないですね。
ともかく、ジュリーには権力や雑音に負けず、自分の歌を貫いてほしいです。ジュリー、頑張れ!
(ジャッピー!編集長)
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金田四兄弟(400+0+0+128)と長嶋親子

昨日の当ブログで書いたように、金田留広さんは東映フライヤーズ入団後4年間で77勝!をあげていましたが、1973年にははじめて二ケタ勝利に届かず(7勝)、その年、兄の金田正一さんが監督に就任した「ロッテには投げにくい」と言ってトレードされ、ロッテに移籍、1974年は優勝に貢献する活躍をみせます。
留広さんは、名前から分かる通り、兄弟の末っ子で四男です。正一さんと留広さんの間にいる2人の兄弟も、実はプロ野球選手になっています。次男の金田高義さんも投手で1958年に国鉄スワローズに入団、60年まで在籍して一軍の実績なし。また、三男の金田星雄さんも投手で60年入団でこちらも一軍にはあがれないまま2年間だけ在籍しました。つまり、1960年にはスワローズに金田三兄弟が在籍していたわけです。
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(留広さんはちょっと年が離れていて60年当時は中学生、さすがに4兄弟同時在籍とはなりませんでした)この高義さん、星雄さんの入団については、もちろん正一さんのプッシュがあったのでしょう。弱小チーム・国鉄スワローズでほとんどの勝ち星をあげるぐらいのエースだった金田正一投手のワンマンぶりは「天皇」と言われるほどでしたから、弟たちを入団させるぐらい簡単だったと思います。一説には、国鉄球団側が金田正一の年俸を抑えるために弟さんたちの入団を持ち掛けご機嫌をとったとも言われているようです。ちなみに、留広さんが広島カープに移籍した1979年、金石昭人投手がドラフト外でカープに入団しています。金石さんは留広さんの姉の子ども(つまり正一さん、留広さんの甥っ子)で、この入団に際してもカネやんのカープへの口利きがあって、留広さんに面倒みるように言ったそうです。のち、金石さんは一軍で活躍する投手に育ちました。
一方、国鉄に入った弟さんたちの気持ちはどうだったでしょう。大投手を兄に持って、同じチームに入って、周りからの目とか気にならなかったかなあ。まさか兄と同等の活躍が出来るとは思わないまでも、1勝もできない投手が「支配下選手」の枠を埋めているという後ろめたさ? あるいはプレッシャーはどれほどだったのだろう? 留広さんもロッテ移籍1年目こそ16勝あげましたが、以後は6勝、3勝、2勝……と下降していったし。
西武ライオンズにいた松沼博久・雅之兄弟なんかは、球団創設年に同時に入団しているからお互い心強かったと思いますが、金田兄弟みたいに兄がすごい実績をあげていると辛いんじゃないかと思います。
そういえば、長嶋茂雄監督のジャイアンツに移籍した一茂選手なんかも辛かったかなあ。こちらは「兄弟」でなく「親子」だけど、同じサードを守って、どうしたって比べられるし。G20141014009098400_view
れとも子どもの頃から「スーパースターの息子」という立場で見られることに慣れていたのか。国鉄の金田兄弟の時代と違って、一茂さんはれっきとしたドラフト1位でヤクルトに入団しているのだから、それなりに野球の素質はあったのだと思います。もし、長嶋家に生まれていなければ、その才能が開花していたのか……とか想像してしまいます。
僕も小学校のとき、兄が優秀で児童会長とかやっていたりしたので、先生たちから「君があの子の弟か」といらぬ期待の目で見られてイヤだった記憶があります。だいぶスケールの小さい話ですが……。
(ジャッピー!編集長)






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追悼・金田留広さん

昨日に続いて、当ブログ9月21日にハピイさんが紹介された「1970年(昭和45年)のセ・パ両リーグの選手個人成績」をご覧ください。昨日も書いたように、今とは格段に違う投球回数のピッチャーが並んでいますが、パ・リーグの防御率5位の投手もこの時点で312イニングを投げ、23勝をあげています。この好成績をあげた投手・金田留広さんが10月2日に亡くなりました。ダウンロードkaneda


金田さん(東映)はこの1970年は最終的には316イニングを投げ、24勝をあげました。それでも、最多勝は逃しています。(ロッテの成田文男投手が25勝で獲得) ご存じ、400勝投手の金田正一さんの弟である留広さんは1968年のドラフト会議で4位指名で東映フライヤーズに入団。1年目の1969年に18勝をあげました。このルーキーの年、オールスター戦に選出され、登板したときにセ・リーグが金田正一さんを代打で出して、「兄弟対決」という見せ場で留広さんが打ち取ったのは記憶しています。
翌年(1970年)が前述の通り24勝、71年15勝。そして72年には20勝で念願の最多勝に輝きますが、73年には7勝とガクッと成績が下がります。というのも、73年に正一さんがロッテ監督に就任し、兄弟が敵同士になってしまったのです。たしか留広さんが「ロッテ相手には投げづらい」という発言をしたとかで、正一監督もトレードを持ち掛け移籍、ロッテで「兄=監督・弟=選手」が成立します。のちの長嶋一茂選手がヤクルトからジャイアンツに移籍、「長嶋親子が監督・選手」となった先駆ですね。ただ、一茂さんは活躍できませんでしたが、留広投手は見事に復活、16勝をあげロッテの優勝に貢献します。以後は成績も下降、1978年金田正一監督の辞任に伴い、留広さんも広島カープに移籍します。お兄さんの「監督就任」に左右された選手生活の中盤でしたが、優勝したことで、大投手・正一さんんも獲っていないMVPに輝いたのですから良かったのでしょう。
カープでは、池谷さん、福士さん、山根さん、北別府さん、中継ぎに大野さんが台頭、絶対ストッパーの江夏さんと強力投手陣が揃っていたこともあって、留広さん
はあまり出番がありませんでした。が、たまにローテーションの谷間に先発すると、5~6回をきっちり投げ、今でいう「試合を作って」79年4勝1敗、80年4勝3敗をあげました。両年、カープは優勝、2連覇しますが、近鉄バファローズと激闘を繰り広げた日本シリーズでは留広さんは登板することもありませんでした。しかし、かつての20勝投手で最多勝やMVPを獲ったベテランがくさることなく、ペナントレースで与えられた場面で懸命に投げている姿はとても印象に残っているのです。当時あまりパ・リーグの試合がTVで放映されていなかったせいもあり、僕にはこの晩年のカープ時代の留広さんが印象的なのです。往年のスピードもなく、ほとんど直球とカーブだけなんですが、度胸満点のピッチングで抑えていました。
今年は衣笠祥雄さん(当ブログ7月18日もご参照ください)、そして金田留広さんとカープOBが鬼籍に入られました。昨日、1勝をあげた
カープ、是非「日本シリーズ」を制してほしいですね。小気味いいピッチングで128勝をあげた金田留広さんのご冥福を心よりお祈りいたします。(ジャッピー!編集長)

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「昭和のエース」はもう出ないのか

昨日の当ブログで、先頃亡くなったジョー・スタンカ投手(南海ホークス)が1964年日本シリーズで阪神相手に3完封という大車輪の活躍をしたという話を書きました。この年は「東京オリンピック」が開催された年で、プロ野球も開幕を早めるなど日程は早め、10月1日に甲子園球場で第1戦。スタンカ投手が完封。中2日で10月4日に先発も2回4失点で負け投手。そして再び甲子園に舞台を移し、9日に先発、完封。翌日10日にも先発、完封で3勝をあげました。10日は「東京オリンピック」の開会式の日で、本当はその前日までに7戦終わる予定でしたが、8日が雨天中止で、結局第7戦は開会式の日と重なってしまい、翌日「南海日本一」のニュースの扱いは小さくなってしまいました。
8日の雨天中止で、第6戦先発のスタンカ投手は中4日になり、当時のスポーツ新聞には「あとがない南海、中4日で休養十分のスタンカを立てる」といった記事が出ています。それが、今や、中4日で「特攻ローテ」と呼ばれる時代となりました。投手の起用という点では、昭和の野球とはまったく異なります。
当ブログ9月21日にハピイさんが載せておられる「1970年(昭和45年)の報知新聞」をご覧ください。シーズン終盤のセ・パ両リーグの個人打撃成績、投手成績が出ています。懐かしい名前が並んでいて思わず遠い目をしてしまいますね。セの打率トップは王貞治さん、パは張本勲さん(この時点で3割8分超え。この年は途中まで4割打っていたんですよね) セ・リーグではこの時点で3割超えは王さんだけ。防御率を見ると村山実投手の0点台を筆頭に1点台が3人、13位まで2点台が並びます。この年のセは「投高打低」だったのですね。そして、注目していただきたいのは投球回数です。防御率ランクにのるのは「規定投球回数以上」で「規定投球回数」とは試合数と同数です。当時はたぶん130試合制だったから「規定投球回数」=130イニングであります。で、見てみるとほとんどが200イニングを上回り、平松政次さん、江夏豊さん、鈴木啓示さんといった各チームのエースとなれば当たり前のように300イニングを超えています。規定投球回数の倍を軽く超えているわけです。中3日、4日で完投が当たり前、時にリリーフにも出るのがエースだったのです。
一方、今年(2018年)の投手個人成績を見てみると、規定投球回数に達したピッチャー自体が、セが8人、パが9人。チームに1人ないし2人しかいない状況です。ソフトバンク・ホークスに至ってはゼロです! もちろん規定投球回数の倍イニング投げた人はいません。200イニング超えたのもジャイアンツの菅野智之投手のみ。先発は中6日(つまり週一回登板)、5~6回投げれば「試合を作った」と言われる分業システムが完全に定着したわけです。投球回数が減れば、勝ち星もあがらないのは当然で、今年の最多勝セが15勝、パが16勝。20勝なんて(楽天時代の田中将大投手の24勝0敗のような神がかりがない限り)もうほとんど可能性ないわけです。2000本安打達成者は毎年のように出ますが200勝はほとんど出ないから、「名球会」も会員も投手・打者のバランスがいびつになってしまっていますね。「名球会」入りを目標にするなら250セーブを狙う方が得策かもしれません。
という風に、昭和の野球と現在の野球は(特に投手に関しては)全く違うフェーズにあると思います。ピッチングマシーンや道具の発達によって打撃の練習環境が進化しているから、これは時代の流れとして仕方ないことです。しかし、昭和時代、チームを背負ったエースたちの活躍を見てきた身からしたら、ちょっと淋しいですね。だから県予選から1人で投げ通した吉田輝星投手には期待したいですね。それにしても、日本ハム・ファイターズは毎年、スター選手を獲得しますねえ。
(ジャッピー!編集長)
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追悼・ジョー・スタンカさん

あと2時間ほどで「日本シリーズ」が始まります。今年は、広島東洋カープVS福岡ソフトバンク・ホークスという初顔合わせになりましたが、やっぱり「クライマックス・シリーズ」というのが違和感あるなあ。今年の場合でいうと、西武ライオンズはペナントレース開幕から一度も首位から落ちることない優勝だったわけです。それが「日本シリーズ」に出れないって理不尽だと思いますねえ。じゃあ、一年間の戦いって何だったのかと問いたいです。(この件については当ブログ2017年10月28日「クライマックスはいらない」に書きましたのでご覧ください) まあそれはともかく、「日本シリーズ」にふさわしい熱戦を期待したいです。
クライマックスシリーズで西武ライオンズを破ったホークスが、クライマックス第1ステージから続いたので、千賀投手を中4日で起用、「特攻ローテ」と新聞の見出しにも出ていました。今や、中6日が当たり前となった投手ローテーションですから仕方ありませんが、昔から思えば考えられないですね。特に、シーズンの優勝がかかった大事な試合や日本シリーズなんて大一番ではエースだったら中2日、中3日が当然でした。
中でも、シリーズ3完封、それも第6戦、第7戦は連投で完封というすごいことをやってのけたピッチャーがいました。1964年の「日本シリーズ」、南海ホークスのジョー・スタンカ投手です。ダウンロードsutannka-
そのスタンカさんがこの10月15日に87歳で亡くなりました。スタンカさんは1950年にドジャース傘下のチームに入りますが長いマイナー・リーグ暮らし。ようやく1959年にホワイトソックスでメジャーに上がるも2試合登板で1勝。翌年、ホークスに誘われ来日します。当時は今と違ってまだ外国人選手も少なく、待遇もよくありません。それでも、メジャーで実績を残せなかったスタンカさんは妻子もあったし、必死に頑張りました。1年目から17勝をあげ活躍、投手陣の中心となりました。何と言っても196cmという長身は日本人にはめったにいなかったので角度ある球にバッターは苦労したのです。ちなみに来日したばかりのとき、自分を見た日本人が皆「大きい、大きい」と言うのでスタンカさんは「何で皆、自分がオクラホマ出身と知っているのか」と不思議に思ったそうです。フィラデルフィア出身者を「フィリー」というように、オクラホマ出身者は「オーキー」というのです。
最高の成績をあげたのが1964年。この年、26勝をあげ優勝に貢献、MVPも獲得しました。そして日本シリーズで阪神タイガースと激突、「浪花シリーズ」と呼ばれたシリーズで第1戦に先発したスタンカさんは3安打完封。第3戦はKOされてしまいますが、南海2勝3敗と「王手」をかけられた第6戦に先発、2安打完封で逆王手とします。そして翌日も先発、何と連続完封を果たしました。当時、アメリカ野球でも例がなく、もちろんスタンカさんも経験なかったですが、最後の一勝のために監督、コーチが頼むのに意気を感じたのです。
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1965年のオフに子供をガス事故で亡くし、傷心のスタンカさんは退団、帰国しますが、翌年1年だけ大洋ホエールズで復帰、6勝に終わり引退。日本のプロ野球で通算100勝をあげました。(面白いことに同時期にタイガースで活躍、1964年日本シリーズでも戦ったジーン・バッキー投手も同じ通算100勝でした)日本球界にその名を残されたスタンカさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(ジャッピー!編集長)
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きたさん
1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
ジャッピー!編集長
映画雑誌「ジャッピー!」を主宰する編集長
映画や昭和歌謡に底知れぬ造詣を示す昭和博士
ハピイ氏橋
昭和のあれやこれやをイラストにして解説。
独自の目線で昭和の面白さを掘り起こすイラストレーター
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