今年の2月20日に俳人の金子兜太さんが98歳で亡くなられました。金子さんは大正8年生まれで、個人的なことになりますが僕の父も同じ大正8年生まれで、僕はとうに父親の年齢を越えてしまいましたが、「ああ、生きていれば父も98歳かあ……」と久しぶりに早くに亡くなった父親の無念などに思い至ったりしました。年の瀬の孤独な時間、ちょっと感傷的になってしまいました。
俳句にはあまり詳しくないのですが、金子兜太さんはご自身が従軍された経験から戦争の虚しさを発信し続けており、その関連の文章を読むことがありました。僕の父も戦争に行っており、(足の甲に弾が貫通した傷跡がありました)子どもの頃に戦争の話を聞いていたので、その辺もやはり父の記憶と重なったりしたのかもしれません。
金子さんは秩父に育ち、恐慌で繭の値段が下がり村が貧困に陥ったのを目の当たりにして「戦争すれば自分たちの生活が豊かになる」と思い、「身体を張って」という意気で戦争に行きます。当時多かった典型的な軍国少年でした。しかし、戦局が悪化し、金子さんがいたトラック諸島には補給が途絶えます。食糧が来ないので、現地でイモなど作りますが、収穫されたものは軍人、兵隊に優先的に配られ、工員など民間人への配給は少なく、餓死者がゴロゴロと出ます。また、武器の補給もないので、自前で手榴弾を作ることになり、その実験で腕が吹っ飛んだり命を失った人もたくさんいたそうです。一方、指揮する士官・将校などは自分たちが無事に内地に帰ることしか考えていないような状況で、本当にエゴイスティックな雰囲気だったそうです。そんな光景を目にして「こんなひどいことをする戦争は間違っている」と思い、痩せ衰えて死んでいった仲間たちのためにも「無事に日本に帰ったら戦争のない世の中をどういう形でも志したい」と決意するのです。トラック諸島で一年半、捕虜生活を送り、去る時に作った句が有名な「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る」です。まさに金子さんのその後の俳人人生の原点になっています。
僕は前に金子さんと菅原文太さんの対談を読んだことがあり、文太さんが「秩父困民党」の話を出して、「太平洋戦争と重なる」部分について語ったり示唆に富むものでした。文太さんが「金子さんは筋金入りの反骨だ」と言い、反戦の旗を振り続けていきましょうと締めていました。その文太さんが亡くなり、今年、金子さんも亡くなった日本はアメリカからバンバン兵器を購入、空母も作り、明らかに戦争が廊下の角に待っている状況になってしまっています……。金子兜太さんの書による「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げ続けるしかありません。
戦場を肌で体験した方として貴重なメッセージを語り継いでこられた金子兜太さんのご冥福を心よりお祈りいたします。(ジャッピー!編集長)
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