昨日の当ブログで、大相撲初場所の関脇「玉鷲」関の優勝の話から、横綱「玉の海」の思い出を書きました。とにかく、この時期は「大鵬・北の富士・玉の海」の3横綱は本当に強かったのです!何しろ、1970年~1971年の計12場所、この3人しか優勝していないのですから、いかに圧倒的な強さを誇っていたかが分かります。優勝は大鵬関が2回(1971年夏場所で引退)、北の富士関が6回、玉の海関が4回(1971年秋場所後に逝去)です。1970年春場所から、北の富士関、玉の海関が横綱になっての「3横綱」時代は本当にしのぎを削って毎場所ワクワクしました。
昨日の当ブログで「晩年」の大鵬関と書きましたが、1971年初場所では玉の海関が全勝で千秋楽を迎え、それまで2場所連続14勝1敗で優勝していた玉の海関がついに全勝か!と盛り上がりました。僕も「絶対に全勝する」と見てました。その脂ののりきった玉の海関を大鵬関が千秋楽の本割、優勝決定戦と2番続けて破り、逆転優勝を飾ったのです! これが大鵬関の最後の優勝となったのでよく覚えています。次の春場所も大鵬関は12勝3敗、そして次の夏場所は3勝3敗と出だしでつまずくと、あっさり引退されてしまいます。優勝→12勝→3勝3敗で引退ですからずいぶんと潔い引退です。
これに比べると、稀勢の里関は休場を重ねて引き際を延ばして潔さが欠けるように見えてしまいますが、やはり状況が違います。「大鵬」関の場合は「北の富士」関、「玉の海」関と強力な後輩横綱が誕生していて、後の土俵を託していけると思ったでしょう。しかし、「稀勢の里」関は既に「白鵬」関、「日馬富士」関、「鶴竜」関と3横綱がいるところに昇進した「新参横綱」であり、しかも久々の「日本人」横綱という立場でした。何とか復活をという期待を背負って、簡単に「引退」は出来なかったでしょう。また、稀勢の里席は横綱になるまで1日しか休場をしなかった力士です。左肩の大怪我が治りきる前に出場しては悪化させた点では、その「休まない」力士像?がアダになったかもしれません。しかし、そういう不器用で無骨なところも含めて「稀勢の里」関だったのです。横綱になって初の場所でケガをおして出たからこそ優勝したのだし、「記録」的には物足りないかもしれませんが、多くの人の「記憶」に残る横綱だったと思います。
話を戻しますと、3横綱が優勝を独占した1971年の翌年、1972年は何と6場所で6人の力士が優勝します!「北の富士」関は優勝1回に終わります。「大鵬」関の引退、「玉の海」関の死去で一人横綱となって、ライバル不在でやはり張り合いがなくなったような気がしました。あとの優勝は「栃東」関や「高見山」関、「長谷川」関などいきなり戦国時代に突入という感じでした。この状況、毎場所、優勝力士が代わる今とよく似ています。そんな中、夏場所には「輪島」関が初優勝、いよいよ次の時代の胎動期となっていったのです。この状況、毎場所、優勝力士が代わる今とよく似ていますね。今年の相撲界、世代交代の年となりそうです。
昨日、元・稀勢の里さんは「荒磯」親方として初めてスーツを着て相撲協会に出席されました。今後は部屋を持って次代の力士を育てていくわけです。これから相撲界に長く貢献されることを期待します。
(ジャッピー!編集長)
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