内田裕也さんがまだ渡辺プロに所属していた1966年、大阪のジャズ喫茶(今でいう「ライヴハウス」)の老舗「ナンバ一番」を訪れて「ファニーズ」を発見します。「ナンバ一番」は兵庫出身の内田さんもかつて出演、プロへの足掛かりとなった場所であり、ここの専属になることはプロへの登竜門であるような有名な店です。ローリング・ストーンズやビートルズのカヴァーを演奏していた「ファニーズ」を観て、裕也さんは「バンドとしてのバランスがいい」と感じ、「お前ら、東京に来る気はあるか?」と声をかけます。その誘いに応じて、渡辺プロのオーディションを受け契約、上京デビューにあたってグループ名を改め……「タイガース」誕生の有名なエピソードです。(←当ブログ2017年4月8日もご参照ください)ちなみに名付け親はテレビ・ディレクターで作曲家のすぎやまこういちさんで、裕也さんはガクッとなったというのが定説ですが、裕也さん自身は高校時代は野球をやっていて「阪神タイガース」ファンでしたので、案外と賛成したかもしれません。
ところが、スカウトした裕也さんが翌年には渡辺プロを辞めてしまいます。「ナンバ一番」で「ファニーズ」の演奏を観てバンドとして評価した裕也さん、実は自分のバックでその演奏力を発揮させようと考えていました。実際、東京に来てジャズ喫茶「新宿ACB」でデビューしたときは「内田裕也とタイガース」という名前だったのです。当時、タイガースも「先輩の裕也さんと一緒で心強い気持ちだった」と述べて好調なスタートを切りました。ところが、若い女の子たちに人気が出てくると、渡辺プロとすぎやまさんは「アイドル」的なスター路線を考えてます。デビュー曲も「僕のマリー」というすぎやまさんの曲で、受け取ったときにタイガースのメンバーも「何、これ、歌謡曲じゃない?」と違和感を覚えたそうです。こうして、「タイガース=ロックバンド」と考えていた裕也さんは、「アイドル」路線を進めるナベプロ側ともめるようになります。「ウエスタン・カーニバル」からも外されてしまい、ナベプロは自分をタイガースから切り離そうとしていると感じたのでしょう。
昨日の当ブログにも書いたように、渡辺プロを退社した裕也さんはヨーロッパに渡り本場のロック・シーンを体感してきます。この欧州への旅を援助してくれたのが「キャンティ」の川添浩史さん・梶子さんご夫婦でした。当時の文化人やミュージシャンなどのサロンとなっていた「キャンティ」には、上京したばかりの「ファニーズ」を裕也さんが「どんどん好きなものを食え」と連れていったのです。(「キャンティ」については当ブログ2017年3月5日「キャンティ人脈~GSからニューミュージックへ」をご参照ください) 川添さんにパリの住居を世話してもらい、裕也さんは「タイガース」の面々に見送られて、羽田から夜の便で旅立ちます。(ちなみに、その日の昼間は一緒に神宮で野球していたそうです) こうして、裕也さんはヨーロッパで「修行」し、のちの日本の新しいロックシーン開拓につなげていき、「タイガース」は日本中に吹き荒れた「グループサウンズ」ブームの中心となっていくのでした。もし、あのまま「内田裕也とタイガース」となっていたら、どんな音楽シーンが展開していたでしょうか。  (ジャッピー!編集長)
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