昨日の当ブログで書いたように、シアトル・マリナーズの日本での開幕戦をイチロー選手の花道にするなら、「東京ドーム」ではなく「グリーンスタジアム神戸」でやってほしかったなあ。1995年に「阪神淡路大震災」が起きたとき、「がんばろうKOBE」を掲げた「オリックス・ブルーウエーブ」の優勝、イチロー選手の活躍に被災者の方たちがどれだけ力づけられ、支えになったことか。その象徴だった「イチロー」選手の最後の姿は神戸でこそ見せるべきだったと思います。
その「オリックス・ブルーウエーブ」時代のイチロー選手のブレイクは、仰木彬監督との出会いによるところが大きいのは言うまでもありません。イチロー選手の代名詞「振り子打法」、動きながら打つというのは、それまでのバッティングの常識を覆すものでした。この型破りの打法は、イチロー選手の入団1~2年目(1992~1993年)には当時の土井正三監督に認められず「その打法を変えろ」と言われ、一軍では使わずファームに行かされることになります。イチロー選手は1年目に3割6分6厘という高打率で「ウエスタン・リーグ」の首位打者になって結果を出しているのですが、常識にとらわれている目から見ると「矯正」しないといけないと思われたのでしょう。また、何か「指導」しないと監督、コーチとしての仕事をしてないと思ってしまう陥穽に落ちていたのかもしれません。しかし、1994年から
指揮をとった仰木監督は柔軟な頭を持った人でした。監督に就任した直後にウインター・リーグを視察し、イチロー選手の「眼の鋭さ」が印象に残ったといいます。「ある目的を持っている男の眼の色」と感じ、イチロー選手(まだ当時は鈴木一朗選手)に注目すると「他の選手には見られない動き」であるし、「盗塁の決断、走塁の状況判断、打者によって変える守備位置の確かさ……この若さで監督、コーチが指示、指導する必要ない選手はめったにいない」と評価します。この観察し、能力を見抜く眼力があったからこそ、「振り子打法」を容認し、稀代のヒットメーカーが誕生するに至ったのです。
仰木彬さんは西鉄ライオンズの二塁手として活躍された方です。当時「野武士軍団」と呼ばれた集団の中にいて個性豊かな選手たちのプレイを間近に見ていることもあるから単に「常識」を押し付けることもなかったのだと思います。大下弘さんなんかも独特な打ち方でしたから、他の人ができない打法なんてあって当たり前ぐらいに思っていたかもしれません。
現役引退後、西鉄~近鉄と三原脩監督、西本幸雄監督のもとで長くコーチをやられていましたから、お二人の監督術にも影響を受けているでしょう。アイデアと機知に富み、既成の概念にとらわれず、緻密さと豪快さを兼ね備えた監督でした。そういう監督だったからこそ、「イチロー」選手をプロデュースできたのでしょう。もし、仰木監督と出会わなかったら、イチロー選手の「振り子打法」は矯正され、バッティングが開花することもなく、代走・守備固めの選手に終わってしまったかもしれません。実際、プロ野球界に入ってきた才能ある選手が、首脳陣に「いじられ」過ぎてダメになったという例はいくらでもあるでしょう。本当に人との出会いというものは大きいですね。 (ジャッピー!編集長)
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