今年の3月27日に、近藤昭仁さんが亡くなりました。80歳です。近藤昭仁さんは、高松一高から早稲田大学に入り、優勝にも貢献。1960年(昭和35年)に「大洋ホエールズ」に入団し、背番号1を背負います。この1960年というのは、西鉄ライオンズの黄金時代を築いた魔術師・三原脩さんがホエールズの監督に就任し、前年最下位から優勝という離れ業をやってのけた年です。大毎相手の日本シリーズもすべて1点差で4連勝のスイープで日本一と三原マジック炸裂の年でした。近藤選手にとって三原監督は同郷、同じ早大出身ですが、いやそれだけに厳しくされて、ずいぶん罵倒されたようです。しかし、近藤さんは体格は小柄ですが、気が強く「なにくそ」と食い下がり、見事にセカンドのレギュラーを獲得。日本シリーズでも4試合のうち2試合で決勝打を放ち、新人ながらMVPに輝きました。今でいう「持ってる」男だったのです。
ちなみに近藤さんの奥様は、新東宝などで活躍された北沢典子さん。あの可憐なお姫様と結婚するとは、こちらの方も「持ってる」男だったのですね。
ところが、「監督」としては不名誉な記録を作ってしまいます。古巣の「横浜ベイスターズ」で3年間、監督をやったあと、1年おいた1997年「千葉ロッテ・マリーンズ」の監督に招かれます。最下位に終わった1997年の翌年、1998年に悲劇は訪れます。ペナントレースも中盤に差しかかった6月13日から連敗が続き、引き分け1試合をはさみ、何と18連敗のプロ野球記録を作ってしまうのです。この時期にストッパーの河本投手を故障で欠いたのが大きく、リードしても後半逆転をくらうことが多かったの原因です。特に延長に入ると弱く、連敗中、延長までいった5戦のうち、引き分け1つであとは負け。明らかに抑えの不在が響きました。途中で先発の「ジョニー」こと黒木投手を抑えに回したもののまた負けてしまうという悪循環でした。さらに、ここまで連敗が続くと、プレッシャーがかかり「今日も逆転されるんじゃないか……」とビビッて固くなってしまったのです。スポーツ・マスコミも負けがこむにつれて監督のまわりに集まりはじめ、近藤監督もイライラが高まり「人が困っているときに写真を撮って楽しいのか!」と怒鳴って、カメラマンを突き飛ばしたりということがあった記憶があります。
連敗は7月8日まで続いたので、約1か月、白星がなかったのです。打つ手はみな裏目になり、近藤監督は本当に悩まれたと思います。並みの神経なら、「休養」を考えちゃうところだと思いますが、投げ出さなかったのがスゴイです。当時の新聞にも「逃げ出すのは楽だが、責任持って仕事はやる」ときっぱり述べています。7月9日に小宮山投手の完投で連敗ストップしますが、このときのコメント、「これから20連勝してやる!」というのが、いかにも気が強い近藤監督らしいですね。
もちろん、この年、マリーンズは最下位だったのですが、18連敗くらった時点で「23勝43敗1分け」の「借金20」だったのですが、シーズン最終成績は「借金10」まで縮めたのです。20連勝はできませんでしたが、いかに最後まであきらめずに指揮を執ったかが分かります。
そんな闘将だった近藤昭仁さんのご冥福を心よりお祈りいたします。  (ジャッピー!編集長)
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