5月12日に女優の京マチ子さんが亡くなりました。95歳です。京さんは1924年(大正13年)のお生まれですから、令和になった5月に亡くなり、大正、昭和、平成、令和と4元号を生きたことになります。ちょうど今年の2月から3月にかけて「角川シネマ有楽町」で「京マチ子映画祭」という特集上映が開催されていて、僕も未見だった『浅草の夜』(1954 島耕二監督)を観に行きました。売店にあったパンフレットを立ち読みしたら、京さん直筆のメッセージが掲載されていましたから、お元気なのだと思っていました。
京マチ子さんは1924年3月25日生まれ、その二日後の27日に高峰秀子さんが誕生しております。ほぼ同じ頃に生まれたお二人ですが、高峰秀子さんは子役として1929年(昭和4年)に松竹蒲田に入社、立て続けに映画に出演、人気者になります。一方、京さんの映画初出演は昭和19年です。『天狗倒し』(1944 井上金太郎監督)という作品で、続いて『団十郎三代』(1944 溝口健二監督)に出ています。この2本は当時所属していた「大阪松竹少女歌劇団」から引っ張り出されたものなので松竹映画です。この時点で京さんは19か20歳ですが無名、同じ頃、既に高峰さんは子役から国民的アイドルとなっています。戦地に赴いた若い兵隊たちもデコちゃんのブロマイドを持っていく人が多かったのです。
高峰さんが『秀子の応援団長』(1940 千葉泰樹監督)や『秀子の車掌さん』(1941 成瀬巳喜男監督)といった自分の名前を冠した映画も作られていた頃、京さんは小学校を出てすぐの1936年に入った「大阪松竹少女歌劇団」で舞台に立っていました。こうして、同じ芸能の世界に身を置きながら全く違う軌跡を辿っていたお二人ですが、共通するのはまだ少女といっていい年頃に家計を支えていたということです。高峰さんが複雑な家庭を支えたのは有名ですが、京さんは幼い頃に両親が別れ、祖母と母の女手で育てられました。小学校のときに、叔父さんに連れていってもらった「大阪松竹少女歌劇団」に念願の入団を果たしたのですが、当初「宝塚音楽歌劇学校」に入るつもりだったそうです。しかし「宝塚」の方は3年間学科も学ぶ期間が課せられているということで、より早く舞台に立てる「大阪松竹少女歌劇団に入ったのです。貧しかった家計を早く助けたかったのでしょう。また「とにかく踊りが好きだった」という京さんが、戦後、スカウトされ本格的に映画界に入ったのも、「祖母や母に楽をさせたい」思いがあったからでしょう。
しかし、1949年大映に入社、すでに24歳という女優としては遅いスタートをしたことが逆に、伸びやかに自由を謳い、肉体を開放する「戦後」を象徴するスターという絶好のタイミングとなったのです。
多くの映画でその魅力をフィルムに刻みつけた京マチ子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(ジャッピー!編集長)

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