ひとう前の当ブログで、京マチ子さんが小学校を出て「大阪松竹少女歌劇団」に入団した話を書きました。小さい時から「踊りは大好き」だった京さんは10代の日々を舞台で活躍され、祖母、母との暮らしを支えました。その「京マチ子」という芸名は、お祖母さんとお母さんがつけられたそうで、歌劇団の上級生に「京町」という名字の方がいて、それを半分に割って「京マチ子」にしたといわれますが、もうひとつの説として、当時、新宿の「ムーランルージュ」で大人気スターだった「明日待子」さんに因んでお母さんがつけたというものがあります。当ブログ2016年10月2日「元祖・会いに行けるアイドル」でも、書きましたが(また、5月7日「『なつぞら』と新宿ムーランルージュ」も参照)、今のAKBグループのように、「ムーランルージュ」を連日、満員にした当時のアイドル「明日待子」にあやかって、劇場に観に来てもらうアイドルを目指したというのは信憑性があります。東の「明日=あした」に対して、西の「京=きょう」というわけです。
ともかく、最初はバックで脚を振り上げるその他大勢だった京さんですが、1940年(昭和15年)には初めて台詞のある役がつき、しだいに大きな役をやるようになっていきます。それで松竹映画『天狗倒し』(1944 井上金太郎監督)、『団十郎三代』(1944 溝口健二監督)に出演となるのですが、舞台の調子で大声で発すると「声の大きさをセーブしなさい」と注意されたり、映画の演技に慣れず、撮影中も早く「大阪松竹少女歌劇団」に戻りたいとばかり思っていたそうです。
敗戦後、「大阪松竹少女歌劇団」の幹部に昇進、そのダイナミックな踊りで注目を浴びるようになります。1948年、浅草国際劇場で京さんは全身を黒く塗り南洋の女に扮してブギウギを踊っているのを大映のプロデューサーが目をつけてスカウトします。戦前のおしとやかな日本的な女優とはまったく違うタイプを探していたことがうかがえますね。時はあたかも、笠置シヅ子さんの唄う「ブギ」が当たりました。京さんも「東京松竹少女歌劇団」との合同公演で「日劇」に出て「七面鳥ブギ」を踊ったのが大受けしたことが語り草になっています。
こうして、新しい時代が求めるリズムに合致した京さんは1949年(昭和24年)大映に入社。その豊満な肢体とダイナミックな踊りを活かした役が続きます。踊りの好きな京さんは「大映に入ってしばらくは音楽を聞くと踊りたくてムズムズしていました」と言っていますが、京さんがこの当初のイメージだけだったら、「肉体派」として消費されて、何年後かには消えていたかもしれません。次々に女優が登場する映画界、そういった末路をたどった人はたくさんいます。しかし、京さんは「踊り子役が続くと、逆にだんだん抵抗を感じるようになった」と、演技にも精一杯ぶつかってやろうと思います。それは、歌劇ではたっぷりリハーサルに1か月かけるのに、映画では「その場で振り付けして、はい本番みたいなことを言われる」と、映画スタッフが、踊りなんて簡単にできると軽く見ていることに対しての意地もあったそうです。
そんな気概を持っていた京さん、翌年には大映にやって来た『羅生門』(1950 黒澤明監督)に出演、ご存知のように「ヴェネチア国際映画祭グランプリ」や「米アカデミー賞最優秀外国語映画賞」を獲得、一躍「グランプリ女優」となるのでした。  (ジャッピー!編集長)
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