当ブログ6月2日に「『騎士団長殺し』と『猫を棄てる』」を書きました。『騎士団長殺し』を読了して「文藝春秋」6月号に掲載された『猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること』を読んで、何だか村上さんを身近に感じたのです。ノーベル文学賞をとろうかという大作家に対して、「身近」は失礼極まりないですが、本当にそんな感じなのです。
今まで村上春樹さんの本は欠かさず読んできたので、僕はまあ「村上ファン」と言っていいと思いますが、ストーリーテリングの鮮やかさや、比喩の巧みさといったテクニックにうなる一方、描かれる主人公や登場人物のアーバンな生活ぶりはちょっと鼻につくものを感じていました。乱暴にいえば、「立ち食い蕎麦をすすっている」自分と「パスタを茹でている間にクラッカーをつまみワインと食す」村上さんとは所詮住む世界が違うのだというような。自分とは「育ち」の違う芦屋のお坊ちゃん的な感覚はすごく「遠い」ものに思えていたのです。それが、今回、『騎士団長殺し』の中で、雨田という画家が認知症になって入っている施設を訪れる描写など読んで、「あれ、今までとちょっと違うな」と思い、その小さな予感は『猫を棄てる』を読んで補足されました。この文によると、ほとんど絶縁状態だった父親とは、亡くなる少し前に「和解」のようなことを行い、否応なく父と自分を繋ぐ縁のようなものを感じたといいます。そして父親の死後、関係する人に会ったりしてルーツを辿るように調べたそうです。それは、村上さんはもちろん現役バリバリの作家ですが、突っ走ってきたスピードを落として、登ってきたコースを振り返ってみる歳になったということでしょう。この文章によれば、お母さんももう記憶が曖昧になっているようなことを書かれていますから、否応なく「現実」がそういうことを考えさせるのかもしれません。
僕も今まで普通に「未来」を考えて生きてきましたが、その分量の残りの少なさも感じるようになって、「こうして自分がここにいること」を深く考えるようになりました。村上さんは『猫を棄てる』の最期の方でこう書いています。ちょっと長くなりますが、引用します。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。」
深く心に刺さる文章です。僕は、こうして生を受け、一滴の雨水として何を受け継いただろう。大地に何か恵みをもたらす一滴になっただろうか……。教員時代を思い返せば、もしかしたら僕の一言で励まされたり、気持ちが楽になった生徒もいたかもしれないし、あるいはこの前「東京ろう映画祭」で字幕を作って、目の不自由な方の何らかの役にたったかもしれない。しかし、それ以上に今まで人を傷つけたり、イヤな思いをさせたりということもあったからなあ……。いつ死が訪れて、僕という「一滴」の存在が無くなるかも分からない年齢になって、「一滴」の意味を考えてしまうのです。 (ジャッピー!編集長)
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