大河ドラマ『いだてん』、先週の回は選手村を埼玉県に作ろうとする政府と、あくまで「東京」五輪に拘る阿部サダヲさんがぶつかるという話でした。まるで、マラソンと競歩をめぐって「東京」だ「札幌」だと揉めていた「今」と重なるような内容です。偶然でしょうが、現実とリンクしてしまい、歴史は繰り返すもんだなあと思いました。ともかく、「東京・札幌」問題を見ても、とても日本は「ワン・チーム」とは言えないですね。そもそも、招致のときに「東京は開催時期は“温暖”でアスリートに最適」とか大ウソついたのが発端ですね。♪間違いは~あの時生まれた~ と夏木マリさんの歌を口ずさみたくなります。

それはともかく、先週の『いだてん』では、劇中、薬師丸ひろ子さんが自身が営むバーでテレビを観ながら、「これ『カラー放送』ってなっているのに何で白黒で映るのよ」みたいなことを言って、カラー放送対応のテレビを買わないと映らないんだよと周りから教えられる場面がありました。そうです。当時は画面の隅に「カラー」という文字が出てましたよね。まだ、白黒放送とカラー放送が混在していて、新聞のテレビ欄にも「カラー放送」の番組のところには「カラー」と表記がついていたのでした。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックでカラーテレビの普及率が大きく伸びたと言われていますが、僕の家では買うことができず、「カラーテレビ」がやってきたのはずっと後、1970年代に入ってからのことでした。なので、白黒テレビで観ていて、画面の隅に「カラー」と出ると、カラーで放送されているものがカラーで観れない方にいるという「格差」を子ども心に感じたものです。友だちの家で「カラーテレビ買った」なんて聞くと、羨ましかったなあ。

法事か何かで、遠い親戚の家に泊まったとき、そこの家にカラーテレビがあって、ちょうど土曜日で『巨人の星』が放送されていました。たしか、小舟を浮かべて、釣り竿か何かに吊るした5円玉に向けてピッチング練習する回でした。大リーグボール1号開発の特訓だったかな? 夜のシーンで青い夜空のバックがとても綺麗で妙に印象に残っています。ますます、「カラーテレビ」が欲しくなり、親にもねだったりしましたが、「カラーテレビは目に悪いんだってよ」という言説?ではぐらかされたのです。けっこう、こう言われて我慢させられた子どもは多かったと思います。思えば、小さな工場に勤める父にはカラーテレビを買うような余裕がなかったのです。

そうこうしているうちに1969年に父と兄が相次いで亡くなり、僕は夏に沼津の叔母さんの家に預けられ、そこにはカラーテレビがあったので、初めて色つきの高校野球を

観たのでした。三沢高校の太田幸司投手が活躍した年です。(当ブログ2018年8月24日「1969年の決勝戦を観ていた夏」、2019年8月23日「甲子園レジェンド、板東英二さんと太田幸司さん」をご参照ください)

自宅ではその後、しばらく白黒テレビの時代が続き、ついに長年もっていたテレビ(足つきのやつです!)が突如「プツン」と画面が切れ、映らなくなってしまいました。この故障を機に「カラーテレビ」を買うことになりました。初めて我が家にやってきた「カラーテレビ」で観たのは『アパッチ野球軍』の再放送だったなあ。1970年代も半ばさしかかろうという時期だったかなあ。タイトルバックの赤い色が鮮明で、何か感動したのを覚えています。  (ジャッピー!編集長)

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