ひとつ前の当ブログで書いたように、「シカゴ」というグループにとって、創設メンバーの一人、テリー・キャスさんの死は大きな転換点になりました。ドキュメンタリー映画『ナウ・モア・ザン・エヴァー ザ・ヒストリー・オブ・シカゴ』(2016 ピーター・パーディーニ監督)では、その後のメンバー内の確執も描きます。やっぱり生身の人間が集まっているので、衝突、わだかまりといったものがずいぶんとあります。そこらの紆余曲折がメンバーの証言や、逆に「証言」しないことで明らかになるのが興味深いです。プロデューサーのジェームス・ガルシオさん、ベースのピーター・セテラさんは「シカゴ」の中心人物ですが、この映画の取材を拒否したと示されます。また、途中から加入したビル・チャンプリンさんは取材に対し「良いことが話せないなら沈黙を貫くべきだ、というのが父の教えでね」と意味ありげに語っています。よほど嫌な思い出があるのでしょうね。

ジェームス・ガルシオさんはビッグ・スターになった「シカゴ」の収入のうち51%をガメていて、残りの49%がメンバー7人分だったという事実が帳簿を点検していて分かったそうです。ずいぶん生々しい話が飛び出しますが、これに怒ったメンバーたちはガルシオさんを解雇します。自分たちが稼いだ金の半分を独り占めされて、残り半分を7人で分けていたわけですから頭にくるのは当然ですが、腕利きプロデューサーを失い、その頃から「シカゴ」は低迷していきます。

ピーター・セテラさんは自分が作って歌った「愛ある別れ」(1976年リリース)が大ヒットになってから、自分の曲に自信を持っていきます。テリー・キャスさんはこの曲を嫌っていたそうですが、「シカゴ」というのは元々「僕らは民主的なグループで何でも話し合って決める」ことと「誰の曲でも拒否せず、全員で一所懸命に取り組む」とスターとしたグループだったのです。そうして発表された「愛ある別れ」は初の全米ナンバー1となったので以後のピーターさんのバラード路線は欠かせないものになっていきます。

テリーさんが亡くなり、プロデューサーのガルシオさんを解雇し、どん底状態だった「シカゴ」が復活したのもピーター・セテラさんのバラード曲「素直になれなくて」(1982年リリース)でした。当時、「旬」のプロデューサーのデヴィッド・フォスターさんを起用して作られたこの曲は大ヒット、「愛ある別れ」以来の全米1位を記録します。そして、この1983年というと「MTV」が盛り上がっていた時期です。マイケル・ジャクソンさんを筆頭に「MTV」で流れるミュージック・ビデオが大きくヒットに影響していました。当然「素直になれなくて」もMVを撮ることになり、カメラマンが「誰を中心にするんだい?」とききます。「シカゴ」側は「僕らにはリーダーはいないんだ。全員を均等に撮ってくれ」と主張しますが、「しれでは散漫になる」というカメラマンの意見があり、結局リードシンガーのピーターさん中心のMVとなってしまいます。「民主的」なグループだったのに、フロントマンとして突出したピーターさんは、やがて「俺のギャラの取り分を倍にしてくれ」だの「俺だけ特注のバスにしてくれ」だの勝手なことを言うようになります。この辺も相当に生々しい話で、このドキュメンタリーはかなり赤裸々に「シカゴ」の歴史を綴っています。ちなみに、デヴィッド・フォスターさんは取材に応じ登場しますが、自宅で「オレはこれだけグラミー賞とってるんだぜ」とか、「シカゴ」を再生させたのはオレのおかげと言わんばかりで、大変な自信家だなあと思いました。

結局、ピーターさんは脱退、ソロ・シンガーとなり、「シカゴ」と袂を分かちます。こういう経緯があるから、このドキュメンタリーの取材拒否も当然といえますが、映画の最後に「シカゴ」の「ロックの殿堂」入りの表彰が映し出され、そこにはピーター・セテラさんも久々に加わり、「サタデイ・イン・ザ・パーク」などを演奏します。何だかんだ言っても、やはり感動的な場面です。

メンバーの顔ぶれが変わりながら命脈を保ち活動する「シカゴ」、ラスト「家族だって入れ替わるだろ。これだけ続けられたのはなぜだって? 人とうまく関わっていけたからさ」という言葉が印象的でした。この映画を観たあと、帰宅して「シカゴ」のCDをファーストの「シカゴの軌跡」から順番に聴いたのは言うまでもありません。

(ジャッピー!編集長)

 

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