ひとつ前の当ブログで書きましたが、ヤクルト時代の野村克也監督の代名詞となった「野村再生工場」ですが、それは既に南海で兼任監督をされている頃に始まっておりました。

野村克也さんといえば、捕手というポジションながら戦後初の三冠王であり、ホームラン王9回、打点王7回というまぎれもない名選手であり、名監督でもあるというレジェンドです。その両方を兼務していた1970年代の南海時代が思い出されます。1973年見事にパ・リーグ優勝を果たしたのですからスゴイ!と思いました。

そしてこの1973の優勝は間違いなく山内新一投手が20勝あげたのが大きかったです。当時、パ・リーグは2期制で南海は前期優勝、山内さんは前期だけで14勝あげたと思います。この山内投手は前年ジャイアンツで0勝。通算でもジャイアンツにいた5年間で14勝でした。その投手がいきなりブレイクしたのですから驚きました。しかも、山内さんのトレード相手は富田勝さん。田淵幸一さん、山本浩二さんと「法大三羽烏」と称されたスター選手でもちろんドラフト1位です。1968年のドラフトで、指名順全体1位の東映が亜大の大型内野手・大橋譲さん(のちに阪急のショートで活躍されましたね)、続く広島が山本さん、続いて阪神が田淵さん、その次の南海が富田勝さんを指名ですから、全体でも4番目。この年のドラフトは「大豊作」と言われ、その他の1位選手も山田久志さん(阪急)、東尾修さん(西鉄)、有藤通世さん(ロッテ)、野村収さん(大洋)など入団後活躍する選手が目白押し。巨人が島野修さんを指名、ジャイアンツを熱望していた星野仙一さんが「島と星の間違いじゃないのか!」と吼えた年です。そんな豊作の年の全体4番目の六大学のスター選手で南海でも既にサードのレギュラーでもあった富田勝さんをあっさりトレードに出すというのは驚きました。1対2のトレードですが、交換相手の山内新一さんは故障あがりで前年0勝。さらに松原明夫さんもそれまで0勝のピッチャーです。そもそも、「長嶋の後釜のサードが欲しい」とジャイアンツ側から持ち掛けられたトレードと言われていましたし、当時、「プロ野球ブック」なる雑誌をひとりで作っていた少年時代の僕もさすがに「これは巨人に騙されたな……」と思いました。

しかし、フタをあけてみれば、山内新一さんは20勝をあげる大活躍。オールスター戦の人気投票でも、それまで3年連続パ・リーグ1位だったプリンス、太田幸司投手を上回り1位で選出、大ブレイクを果たしたのです。山内さんは故障のため、肘が曲がりナチュラル・スライダーになるのを、野村捕手兼監督が「それが武器になる」と指摘してピッチングを組み立てたのです。ちょっとした「気づかせ」で成績が急向上したのですが、技術面だけでなく、メンタルな部分も大きかったような気がします。名捕手でしかも監督がそう言っているのだから自信を持てたと思うのです。

この1973年のオールスター・ゲーム第1戦で、ロッテの成田文男投手が野村さんとバッテリーを組み、セ・リーグを0に抑える好投を見せたあと、「野村さんがキャッチャーだと何となく安心して投げれる気がしますね。山内がここまで14勝もしたのは野村さんのおかげですよ」とコメントしたのをはっきり覚えています。また、第2戦で先発した山内投手が3イニングを0に抑え、見事に勝ち投手になり、負けたセ・リーグ監督の川上さんが「うちにいた選手が野村くんという良き指導者の下で活躍するのは嬉しい」と語ったのも覚えています。川上さん、大人のコメントだけれど、内心悔しかったんじゃないかなあ。(ちなみにポスト長嶋として獲った富田勝さんはわずか3年後、長嶋政権によって張本勲さんを獲得するために高橋一三投手とともに日本ハムにトレードされます)

また松原明夫投手(のちカープでも活躍する福士投手ですね)も7勝をあげ、山内さんと合わせて0勝→27勝を生み出したトレードになったのでした。誰もが「損した」と思ったトレードで大成功、前年1972年の江本孟紀さんが東映で0勝→南海でいきなり16勝もあったし、野村さんの「見る目」と「再生」手腕が炸裂したのでした。90年代に注目された「野村再生工場」は既に70年代前半に稼働を始めていたのです。(ジャッピー!編集長)

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