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昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

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追悼・ジーン・バッキーさん 今日は運命の9月18日

9月14日、元・阪神タイガースのジーン・バッキー投手が亡くなりました。82歳、故郷のルイジアナ州で息を引き取られたそうです。一昨日の当ブログに「追悼・鎌田実さん」を書いたばかりですが、タイガースのレジェンドの訃報が続きますね。「猛虎」編集長のハピイさんの心中、お察しいたします。

僕のバッキー投手の印象はとにかく「でかい」ということです。今でこそ、外人ピッチャーは各球団にたくさんいて見慣れましたし、日本人も大谷翔平選手のような体格の選手がでてきましたが、当時はこっちも子どもだったせいか、とんでもなく大きなピッチャーという感じがしました。(当時のバッキーさん、193cm)

大学在学中にマイナー・リーグに入ってメジャー・リーガーを目指していましたバッキー投手ですが、芽が出ず解雇されてしまいます。ハワイのチーム(当時あったんですねえ)に在籍していたバッキーさん、すでに結婚もされていたのですが、ルイジアナに戻るお金もありません。困っているところにハワイ日系人から誘われ「ハワイ朝日軍」というセミプロチームに加入、そこから日本のプロ野球に紹介してもらうチャンスが生まれたのです。阪神のテストを受け、1962年7月に入団。外人選手といっても、鳴り物入りというわけでなく、テスト生だったのです。契約金なし、月給は3万円だったそうです。奥さんを呼び寄せ、甲子園裏の安アパートで暮らし始めます。雑誌に載っていた写真で見たことがありますが、本当に庶民が暮らすアパートという感じで畳の部屋で寝転がっているのが窮屈そうでした。自転車で甲子園球場に通っている姿がお馴染みだったといいますから、広島のエルドレッド選手の元祖ですね。一番困ったのは、和式トイレだったそうで、バッキーさんのような大男が膝を曲げてふんばるのは苦しかったでしょう。(昭和は洋式トイレってめったになかったもんなあ! 僕なんかたまに洋式に入ると落ち着かなかったよ)

遠征先でもチームメイトと一緒に日本旅館に泊まりツンツルテンの浴衣を着て布団にくるまって寝るなど、そんな慣れない生活をしながら必死に頑張ったバッキーさんは、2年目に8勝、そして3年目には29勝9敗、防御率1.89という見事な成績で最多勝、防御率1位、外国人投手初の沢村賞も受賞します。この1964年のタイガース優勝に貢献しましたが、MVPはとれませんでした遠征先でもチームメイトと一緒に日本旅館に泊まりツンツルテンの浴衣を着て布団にくるまって寝ていました。当時の日本記録、55本のホームランを放った王貞治選手がMVPをさらいました。途中入団とはいえ、1年目の1962年は0勝3敗。今だったら、すぐクビだったでしょうが、球団上層部もバッキー投手の能力の可能性を見い出し「育てよう」という方針だったのでしょう。バッキーさんの陽気な性格、練習熱心な姿勢があったのは言うまでもありません。ハワイから帰るお金もないところから拾ってもらい、必死だったのです。このハングリー精神、今年「貧打解消」のため阪神に途中入団したあげく「モチベーションが出ない」と1軍昇格拒否し、退団したソラーテ選手に見習ってほしかったですね。

それはともかく、タイガースのエースとなって100勝をあげたバッキー投手、101勝目を目指したジャイアンツ戦で王選手への危険球をめぐり、荒川博コーチと乱闘、殴ったときのケガが元で選手生命が終わったのは残念でした。たしか、最初に手(いや足か)を出したのは合気道の達人・荒川博コーチだったのですが、これがなかったら、まだまだ勝てたのに……。この「運命の日」が1968年9月18日です。今日はあの日から51年目です。

翌年、近鉄バッファローズに移籍したバッキー投手ですが、0勝7敗に終わり退団、帰国となりますが、吉田義男さん、遠井吾郎さん、山本哲也さん……など阪神時代のチームメイトが入れ替わり立ち代わり、毎日のように送別会をしてくれたそうです。仲間に愛され、ファンにも愛されたジーン・バッキー投手のご冥福を心よりお祈りいたします。  (ジャッピー!編集長)

 

 

 

 

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バート・レイノルズさん最後の主演『ラスト・ムービー・スター』に感動

当ブログ9月9日「追悼・ジョアン・ジルベルトさん」に書いたように、7月にジルベルトさんが亡くなったばかりで『ジョアン・ジルベルトを探して』(2018 ジョルジュ・ガショ監督)というドキュメンタリー映画が公開され、追悼上映のようになりました。同じ映画館「シネマカリテ」で昨年亡くなったバート・レイノルズさんの最後の主演作『ラスト・ムービー・スター』(2017 アダム・リフキン監督)が公開され、僕は先週観に行きました。『ジョアン・ジルベルトを探して』は公開が決まっているところにジルベルトさんの訃報が入ってきたのだと思いますが、『ラスト・ムービー・スター』の方は、レイノルズさんが亡くなったことを受けて公開されたようです。小品なので、オクラ入りする可能性もあったかと思いますが、公開され無事に観ることができて良かったです。

バート・レイノルズさんといえば、昭和世代の映画好きなら主演作を何本も観たことがあるでしょう。ハリウッドで興行収入1位俳優になったこともある大スターでした。(当ブログ20181226日をご参照ください) 頂点を極めたあと、作品にも恵まれず、時代とともに人気が下降してしまいましたが、この映画ではそんなレイノルズさん自身を思わせる「過去のスター」を演じます。

スタントマン出身でスターにのぼりつめたヴィク・エドワーズ(バート・レイノルズさん)は高齢となり広い家に独りで暮らしています。そこに「国際ナッシュビル映画祭」から「特別功労賞」を授与したいと招待を受けます。過去の受賞者はロバート・デ・ニーロさん、ジャック・ニコルソンさん、クリント・イーストウッドさんと聞いて、出掛けるのですが……。マッチョな肉体、男くさい魅力で売ったレイノルズさんが杖をついてヨタヨタ歩く姿はちょっと淋しいけれど味がある好演です。どんな立派な映画祭かと思ったら、地元の映画オタクのような青年たちが手作り感満載でやっているイベントです。イーストウッドさんなど「受賞者」たちも授与されただけで来たことはないのでした。プライドを傷つけられたヴィクは毒づき、帰ろうとしますが、その途中、ふと自分が育った町に寄ることにします。かつて住んでいた家に立ち寄り、母親を思い出したり、子どもの頃好きだったお菓子を食べたり、大学時代アメフトの試合に出たスタジアムで遠い目をします。当然、実際アメフトをやっていて『ロンゲスト・ヤード』(1974 ロバート・アルドリッチ監督)に主演したレイノルズさんが重なります。この「思い出ツアー」でヴィクは自分を振り返り、同行する「運転手」役の若い女の子とのやりとり、次第に共感を覚えて優しい気持ちになっていくロードムービーの仕様になっているのも良かったです。

「スタントマン」とか昔の映画の小ネタを散りばめているところは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019 クエンティン・タランティーノ監督)(聞くところによるとレイノルズさんも出演する予定だったとか)みたいですが、僕はむしろ『運び屋』(2018 クリント・イーストウッド監督)に近いものを感じました。あの映画の中でイーストウッドさん演じる老人が女にだらしなく家庭を顧みなかった人生を悔いるのがまるでイーストウッドさん自身の懺悔のように見えました。(当ブログ2019年3月17日「『運び屋』と『黄昏』」を参照)ヴィクが施設に入っている元の奥さんに会って謝るシーンがあるのですが、これもレイノルズさん自身が人生を振り返っているに見えました。このシーンでは近くの席から何人か女性客がすすり泣いている声が聞こえました。

『ロンゲスト・ヤード』を想起させるだけでなく、『脱出』(1971 ジョン・ブアマン監督)や『トランザム7000』(1977 ハル・ニーダム監督)が引用され、若き日のレイノルズさんと老境に至ったレイノルズさんが共演?という面白い映像もあります。まさに虚実が混在するのですが、ただ過去をノスタルジックに語るだけでなく、若い世代を励まし背中を押すような終わり方なのもグッドジョブです! ラスト、素直に「受賞」するヴィクのスピーチが本当に感動的でした。 (ジャッピー!編集長)

 

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追悼・鎌田実さん 目にもとまらぬバックトス!

今年の8月1日に元・阪神タイガースの二塁手、鎌田実さんが亡くなりました。80歳です。そういえば、ずっとラジオの解説にも出ておられなかったなあと思っていました。阪神の主宰ゲームで大阪のラジオ放送ではよく聴きました。結構、毒舌という感じでしたが、あの1985年のタイガース優勝の年などやっぱり嬉しそうだったのを覚えています。

先日、ドラゴンズの大野雄大投手に「ノーヒット・ノーラン」を食らうなど、今年も「貧打」の阪神ですが、伝統的に阪神は「守り」のチームで強力な投手力と堅い守備が売りでした。(そういう意味では「バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発」で知られる1985年は異例)そんな阪神の「伝統」の一角を担った名手が鎌田実さんでした。高校時代は元々、遊撃手だったという鎌田さん、1957年に阪神に入団しますが、ここには史上最高の遊撃手、「牛若丸」と称された吉田義男選手がいますので、二塁手に転向。これで揃ったセカンド鎌田さん、ショート吉田さん、サード三宅秀史さんという布陣は鉄壁、当時「試合前の内野シートノックだけで金がとれる」と言われていました。僕が熱心に野球を観始めたころ、三宅選手はケガでレギュラーを退いており、この黄金トリオを見ることができなかったのが残念。タイムスリップして見てみたいです! 

そんな黄金トリオの二塁手だった鎌田さんといえば、「バックトス」です。今では高校野球の選手でもやっているほど当たり前のプレーになっていますが、その元祖が鎌田実選手です。たしか、アメリカでキャンプをはったときに現地の選手がやっているのを見て練習を始めたのだと思います。それで実際に試合で使えるようになるまで3~4年かかったといいますから、何事も先駆者というのはすごいです。ゴロを補給してアッという間にショートの吉田選手にボールが渡り、すぐに一塁に投げて余裕でダブルプレーという場面が何度もありました。「目にもとまらぬ」という表現がピッタリくるスゴ技でした。また、鎌田さんの「バックトス」を可能にしたのは相方の吉田さんがいたからこそでしょう。現に、のちに鎌田さんが近鉄バッファローズに移籍したとき、他の内野手のレベルが低くて対応できないので、三原脩監督に「バックトスをやるな」と言われたそうです。プロの中でも突出した技術だったわけです。近鉄に3年間いた後、タイガースに戻ってきてコーチ兼任、引退後はコーチとなり後進を指導。守備の上手い後藤和昭三塁手など育て「守り」の阪神の遺伝子を伝えました。後藤選手のあとにサードのレギュラーになったのが掛布雅之選手というのが「守り→打撃」カラーに変わった象徴といえますね。

鎌田さんは「バックトス」以外もアクロバティックな守備でまさに「見せる」守備のできるプロでした。守備範囲が広く、一二塁間の打球はことごとく捕っていた印象があります。そのため、一塁の遠井吾郎選手は「不動の一塁手」(動かないファーストの意)と呼ばれていましたね。今でいうと、広島カープの菊池涼介二塁手が近い感じかと思います。難しい打球は楽々とさばく一方、真正面のゴロをエラーしたりすることがあり、悪球打ちの打撃も含め、個性的な名手でした。天才肌だけあって、変人ぽいところがあって、極度の飛行機嫌いで映画やドラマでも「飛行機」がテーマだと見ないというほどだったそうです。近鉄時代、チームが飛行機移動なのに鎌田さんだけ一人電車移動。ある日、ダブルヘッダーの試合が延びて夜行列車の時間に間に合わなそうになってしまい、鎌田さん、三原監督に「試合中ですが、帰らせていただきます」と言ってひとりタクシーに乗り込んだというエピソードがあります。マスコミ嫌いでも知られましたが、前述のように解説者をつとめ、分かりやすい解説をされていました。

タイガース・ファンでかつて「猛虎」という雑誌を手づくりされていたハピイさん(当ブログ2018年3月3日ご参照ください)も鎌田実さんの訃報は残念でしょう。

阪神タイガース史上でも最高の守備を誇った名二塁手、素晴らしいプレーで僕たちを魅了した鎌田実さんのご冥福を心よりお祈りいたします。(ジャッピー!編集長)

 

 

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『旅の終わり 世界のはじまり』と海外やらせバラエティー

新聞に出ていましたが、TBSのバラエティー「クレイジージャーニー」という番組で「やらせ」があり、放映が休止になったそうですね。僕はこの番組を観たことがないのですが、記事によると、海外で珍しい動物を発見して捕獲するという企画なのに、実はあらかじめスタッフが「しこんだ」ものだったとのこと。単純に「珍しい動物」を紹介するだけなら問題なかったのに、いかにも発見したかのような「演出」をつけてしまったわけですね。前にも、同じような海外ロケをするバラエティーで日本テレビの「世界の果てまで行ってQ」(この番組も観たことありません……)で、ありもしないお祭りをあたかも昔からやっていたように「しこんで」放送していたそうですね。きっと、今までも同じようなフェイクな作りをした番組はあったのでしょう。こうやって他局で発覚して問題になっても、視聴率という結果を出さなきゃならないというプレッシャーの前に「やらせ」は仕方ないという感覚なのでしょうか、「やらせ」に対してマヒしているのでしょうか。

このニュースを読んで思い出したのが、今年観た映画で『旅の終わり 世界のはじまり』(2019 黒沢清監督)です。この映画には、ウズベキスタンで取材して番組を作ろうとしているTVのクルーが出てきます。ディレクターが染谷将太さん、カメラマンが加瀬亮さん、ADが柄本時生さん、レポーターが前田敦子さん、これに現地のコーディネーター兼通訳の男性がついています。巨大な怪魚がいるという湖を訪ねたり、食堂で現地の料理を食リポしたり、小さな遊園地?にある回転する遊具に乗ったり、ゆるい感じで撮影が続きます。この遊具に乗るシーンで、現地のおじさんが「あんな少女を一人乗せるのはダメだ。大人がついてあげないと」とクレームをつけます。前田敦子さんが少女に見えたようなのです。よく、外国の方からは日本人は幼く見られるといいますが、年端もいかないうちから女の子を集めて水着にさせたり、「センター」争いさせる、見方によっては女衒のようなことやってるアキモトPへの皮肉な視線が感じられるといったら穿ちすぎでしょうか。

染谷さん演じるディレクターは、立場上もあるのか、とにかく「番組」=「視聴率」のことしか考えていないような人で、何でも「金で済む」だろうと思っていることが随所に出てきます。食堂のおばちゃんにもそういう態度でしたし、前田敦子さんが狭い庭?で繋がれている山羊を離してあげたいというとすぐに「金」で買います。その山羊を高原で離すと、元の飼い主が現れすぐに捕まえます。前田さんが「何するんです!」と抗議しますが、飼い主の言い分は「あなたたちが離したなら、今この山羊は誰のものでもない」と言います。で、結局、また「金」を払って山羊を取り戻すのですが、現地の人のしたたかさだって、他国に来て、何でも「金」を払えば解決するんだという姿勢の日本人が生み出しているようなものです。

実際の「この手の海外取材」番組のクルーが多かれ少なかれ、こういう札びらで頬をたたくような態度とっているんじゃないのかねえ。よその国にズカズカと入って来て、「金」で番組(視聴率)に見合うような「ストーリー」を作ろうという傲慢さ、とにかく「下品」ですね。この『旅の終わり 世界のはじまり』はこれから進む道に迷っているレポーター(前田敦子さん)の自分探しがテーマの映画ですが、同時に「日本」という国のアイデンティティも映し出されているような気がします。「多様性」とか盛んに言いながら、今のテレビの報道は「嫌韓」一色、とくにワイドショーとかおぞましい内容です。他国に対する偏見や憎悪を煽るのも「視聴率」のためなんでしょう。ついこの前まで、「ヘイトスピーチ」を批判していたのが、一転、自分たちがまさに「ヘイトスピーチ」みたいな内容の放送しているんだからなあ。「週刊ポスト」の例を引くまでもなく、メディアの矜持など持ち合わせていないんですかね。すっかり「視聴率」の奴隷に成り下がった状態で、これからも「やらせ」番組は後を絶たないことでしょう。

(ジャッピー!編集長)

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続けて達成「ノーヒット・ノーラン」の不思議

昨日、9月14日、中日ドラゴンズの大野雄大投手がノーヒット・ノーランを達成しました。四球1(他にエラー1)という見事な投球です。ドラゴンズでは2013年6月達成の山井大介投手以来6年ぶりの快挙です。ノーヒット・ノーランといえば、つい先日、9月6日にホークスの千賀滉大投手が達成したばかりでしたから、(当ブログ9月9日「別所毅彦投手の完全試合を阻んだ男」参照)中7日でのノーヒット・ノーランのニュース、驚きました。

今、家でとっている毎日新聞のスポーツ欄を見ると、2000年以降のノーヒット・ノーラン達成記録が表になっていて、千賀投手の前は昨年(2018年)7月のジャイアンツの山口俊投手ですが、その前は2014年5月達成の岸孝之投手(当時はまだライオンズにいました)ですから、4年ぶりだったわけです。現代になればなるほど、打者優位とされていますし、投手は分業体制が主流で完投することでさえ珍しくなっていますから昔ほどノーヒット・ノーランが出ないのは当然と考えられますが、そうとばかりは言いきれないのが、岸投手の前の達成者が前述の山井大介投手で、その前の2012年には何と3人達成しています。現ドジャースの前田健太投手(広島)、引退した杉内俊哉投手(巨人)、現タイガースの西勇輝投手(オリックス)です。特に前田投手は4月6日、杉内投手は5月30日ですから2か月連続。この3人達成した2012年の前はというと、2006年の最年長達成のドラゴンズ山本昌投手まで遡りますから中5年、達成はなかったわけです。出ないとパタッと出なくなるけれど、2012年や今年のように続けて出る、不思議ですよね。

続けざまにノーヒット・ノーランが出たケースで記憶に残っているのが、1970年です。5月にジャイアンツの渡辺秀武投手がカープ相手に達成、続く6月に大洋ホエールズの鬼頭洋投手がヤクルト戦で達成したのです。月は違うけど3週間ぐらいしか空いてなかったと思います。何ではっきり覚えているかというと、同じセ・リーグの達成だったこともありますし、渡辺投手は体が大きいわりに気が弱く「メリーちゃん」という愛称で有名だったし、鬼頭投手も気が弱いことで知られ、素質は認められながら伸び悩んでいた左腕投手でした。当時僕は熱心にプロ野球のスクラップ・ブックを作って、さらに手作りの雑誌まで作っていて(当ブログ2018年2月26日「僕の雑誌好きの原点 手作りプロ野球ブック」をお読みください)そんな二人がプレッシャーに負けず達成したなんてことを記者きどりで夢中になって書いたのでした。

翌年1971年はもっとすごくて、8月にカープの藤本和宏投手(活躍はこの年だけでした)がノーヒット・ノーラン、その二日後!に高橋善正投手(当時、東映)が何とパーフェクト! そして9月に入ってすぐ、近鉄のエース鈴木啓示投手が自身2度目のノーヒット・ノーランを達成したのです。3週間のあいだに3回!も達成者が出たのでした。しかも、うち一つは「完全試合」。

この時期はけっこう毎年出ていた「ノーヒット・ノーラン」、80年代に入るとパタッと出なくなり、今井雄太郎投手(この人も気が弱いことで知られてましたね)がパーフェクトを達成した1978年のあと、1985年の郭泰源投手(西武)まで約7年出ませんでした。郭投手の5日後に田中幸雄投手(日本ハム)が達成、出始めると続く例となりましたが、次は1987年の近藤真一投手(中日)のご存知、新人・初登板・初先発ノーヒット・ノーランです。結局、80年代はこの3人だけ。3週間で3人出る年もあれば、10年間で3人だけということもある「ノーヒット・ノーラン」、野球の神様の気まぐれなのか、何か理由があるのか、興味は尽きません。 (ジャッピー!編集長)

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1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
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