ハッピー昭和クラブ

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話
あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

「昭和のエース」はもう出ないのか

昨日の当ブログで、先頃亡くなったジョー・スタンカ投手(南海ホークス)が1964年日本シリーズで阪神相手に3完封という大車輪の活躍をしたという話を書きました。この年は「東京オリンピック」が開催された年で、プロ野球も開幕を早めるなど日程は早め、10月1日に甲子園球場で第1戦。スタンカ投手が完封。中2日で10月4日に先発も2回4失点で負け投手。そして再び甲子園に舞台を移し、9日に先発、完封。翌日10日にも先発、完封で3勝をあげました。10日は「東京オリンピック」の開会式の日で、本当はその前日までに7戦終わる予定でしたが、8日が雨天中止で、結局第7戦は開会式の日と重なってしまい、翌日「南海日本一」のニュースの扱いは小さくなってしまいました。
8日の雨天中止で、第6戦先発のスタンカ投手は中4日になり、当時のスポーツ新聞には「あとがない南海、中4日で休養十分のスタンカを立てる」といった記事が出ています。それが、今や、中4日で「特攻ローテ」と呼ばれる時代となりました。投手の起用という点では、昭和の野球とはまったく異なります。
当ブログ9月21日にハピイさんが載せておられる「1970年(昭和45年)の報知新聞」をご覧ください。シーズン終盤のセ・パ両リーグの個人打撃成績、投手成績が出ています。懐かしい名前が並んでいて思わず遠い目をしてしまいますね。セの打率トップは王貞治さん、パは張本勲さん(この時点で3割8分超え。この年は途中まで4割打っていたんですよね) セ・リーグではこの時点で3割超えは王さんだけ。防御率を見ると村山実投手の0点台を筆頭に1点台が3人、13位まで2点台が並びます。この年のセは「投高打低」だったのですね。そして、注目していただきたいのは投球回数です。防御率ランクにのるのは「規定投球回数以上」で「規定投球回数」とは試合数と同数です。当時はたぶん130試合制だったから「規定投球回数」=130イニングであります。で、見てみるとほとんどが200イニングを上回り、平松政次さん、江夏豊さん、鈴木啓示さんといった各チームのエースとなれば当たり前のように300イニングを超えています。規定投球回数の倍を軽く超えているわけです。中3日、4日で完投が当たり前、時にリリーフにも出るのがエースだったのです。
一方、今年(2018年)の投手個人成績を見てみると、規定投球回数に達したピッチャー自体が、セが8人、パが9人。チームに1人ないし2人しかいない状況です。ソフトバンク・ホークスに至ってはゼロです! もちろん規定投球回数の倍イニング投げた人はいません。200イニング超えたのもジャイアンツの菅野智之投手のみ。先発は中6日(つまり週一回登板)、5~6回投げれば「試合を作った」と言われる分業システムが完全に定着したわけです。投球回数が減れば、勝ち星もあがらないのは当然で、今年の最多勝セが15勝、パが16勝。20勝なんて(楽天時代の田中将大投手の24勝0敗のような神がかりがない限り)もうほとんど可能性ないわけです。2000本安打達成者は毎年のように出ますが200勝はほとんど出ないから、「名球会」も会員も投手・打者のバランスがいびつになってしまっていますね。「名球会」入りを目標にするなら250セーブを狙う方が得策かもしれません。
という風に、昭和の野球と現在の野球は(特に投手に関しては)全く違うフェーズにあると思います。ピッチングマシーンや道具の発達によって打撃の練習環境が進化しているから、これは時代の流れとして仕方ないことです。しかし、昭和時代、チームを背負ったエースたちの活躍を見てきた身からしたら、ちょっと淋しいですね。だから県予選から1人で投げ通した吉田輝星投手には期待したいですね。それにしても、日本ハム・ファイターズは毎年、スター選手を獲得しますねえ。
(ジャッピー!編集長)
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追悼・ジョー・スタンカさん

あと2時間ほどで「日本シリーズ」が始まります。今年は、広島東洋カープVS福岡ソフトバンク・ホークスという初顔合わせになりましたが、やっぱり「クライマックス・シリーズ」というのが違和感あるなあ。今年の場合でいうと、西武ライオンズはペナントレース開幕から一度も首位から落ちることない優勝だったわけです。それが「日本シリーズ」に出れないって理不尽だと思いますねえ。じゃあ、一年間の戦いって何だったのかと問いたいです。(この件については当ブログ2017年10月28日「クライマックスはいらない」に書きましたのでご覧ください) まあそれはともかく、「日本シリーズ」にふさわしい熱戦を期待したいです。
クライマックスシリーズで西武ライオンズを破ったホークスが、クライマックス第1ステージから続いたので、千賀投手を中4日で起用、「特攻ローテ」と新聞の見出しにも出ていました。今や、中6日が当たり前となった投手ローテーションですから仕方ありませんが、昔から思えば考えられないですね。特に、シーズンの優勝がかかった大事な試合や日本シリーズなんて大一番ではエースだったら中2日、中3日が当然でした。
中でも、シリーズ3完封、それも第6戦、第7戦は連投で完封というすごいことをやってのけたピッチャーがいました。1964年の「日本シリーズ」、南海ホークスのジョー・スタンカ投手です。ダウンロードsutannka-
そのスタンカさんがこの10月15日に87歳で亡くなりました。スタンカさんは1950年にドジャース傘下のチームに入りますが長いマイナー・リーグ暮らし。ようやく1959年にホワイトソックスでメジャーに上がるも2試合登板で1勝。翌年、ホークスに誘われ来日します。当時は今と違ってまだ外国人選手も少なく、待遇もよくありません。それでも、メジャーで実績を残せなかったスタンカさんは妻子もあったし、必死に頑張りました。1年目から17勝をあげ活躍、投手陣の中心となりました。何と言っても196cmという長身は日本人にはめったにいなかったので角度ある球にバッターは苦労したのです。ちなみに来日したばかりのとき、自分を見た日本人が皆「大きい、大きい」と言うのでスタンカさんは「何で皆、自分がオクラホマ出身と知っているのか」と不思議に思ったそうです。フィラデルフィア出身者を「フィリー」というように、オクラホマ出身者は「オーキー」というのです。
最高の成績をあげたのが1964年。この年、26勝をあげ優勝に貢献、MVPも獲得しました。そして日本シリーズで阪神タイガースと激突、「浪花シリーズ」と呼ばれたシリーズで第1戦に先発したスタンカさんは3安打完封。第3戦はKOされてしまいますが、南海2勝3敗と「王手」をかけられた第6戦に先発、2安打完封で逆王手とします。そして翌日も先発、何と連続完封を果たしました。当時、アメリカ野球でも例がなく、もちろんスタンカさんも経験なかったですが、最後の一勝のために監督、コーチが頼むのに意気を感じたのです。
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1965年のオフに子供をガス事故で亡くし、傷心のスタンカさんは退団、帰国しますが、翌年1年だけ大洋ホエールズで復帰、6勝に終わり引退。日本のプロ野球で通算100勝をあげました。(面白いことに同時期にタイガースで活躍、1964年日本シリーズでも戦ったジーン・バッキー投手も同じ通算100勝でした)日本球界にその名を残されたスタンカさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(ジャッピー!編集長)
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ジャンルを横断する吉田拓郎さんの偉大さ

昨日の当ブログで書いたように、僕が毎週楽しみにしているラジオ番組「吉田拓郎のラジオでナイト」は高校時代のテープまで発掘放送してくれるなど、拓郎さんの音楽ルーツから現在に至るまでを語っていてとても興味深い内容です。拓郎さんが「眠る前に聴いている」とおっしゃるご自身の i-pod に入っている曲のジャンルの広さ(ロックから演歌、ムード歌謡、イージーリスニングなど)も驚かされますが、いろいろなタイプの音楽からの影響をご自身の曲作りにも活かしす貪欲さが、長年第一線で活躍しておられる秘訣なのだとあらためて思います。
吉田拓郎さんといえば、フォーク・スタイルで登場し、その「字余り」の作風から、ボブ・ディランさんのフォロワーと呼ばれました。これは間違いではなく、当時、拓郎さんはディランさんの特にそのメロディに魅かれていて、ディランさんの曲の影響を受けた曲が数多くあります。当ブログ2016年10月13日「たくろう経由ディラン行き」で書いたように、ディランさんの「ハッティ・キャロルの寂しい死」のメロディに日本語詞をのせた「準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響」という曲もありますし、デビュー曲の「イメージの詩」がディランさんの「廃墟の街」のリフから生まれたのも有名です。
他にも「春だったね」が「メンフィス・ブルース・アゲイン」にインスパイアされているなど、ディランさんのメロディの影響は色濃く出ています。(番組の中で明かされましたが、何と「ザ・バンド」と競演が実現寸前だったそうです。実現していたら「吉田拓郎&ザ・バンド」です!)
しかし、拓郎さんがフォーク・シンガーで世に出る前、広島で大学生だった頃、組んでいた「ダウンタウンズ」というバンドはロック編成で、R&B寄りの曲を好んでいたそうです。ダウンロードtaku
「ラジオでナイト」でもオーティス・レディングさんについて語ったり、先日アレサ・フランクリンさんが亡くなったときも追悼で曲をかけてくれました。バンド時代は米軍基地で演奏していたそうですから、タイミングが違ったらフォークでなくR&Bバンドのフロントとしてデビューして、まったく違う音楽キャリアになっていたかもしれません。番組の中では「この曲はフィル・スペクターの線を狙ってみた」「アレンジをこう工夫した」など、ご自身の曲作り、録音の裏話を披露されていますが、拓郎さんの様々な音楽を取り入れる雑食的な姿勢がいろいろなアイデアを生み出すのでしょう。そして、アイドルから演歌歌手まで多様なジャンルのオファーに応える作曲家としても活躍できるのでしょう。
昔、「フォーライフ・レコード」が設立された頃、拓郎さんの深夜放送(「オールナイト・ニッポン」だったかな?)に、ゲストで小室等さん、泉谷しげるさん、井上陽水さんが集まり「フォーライフ」メンバー勢ぞろいの回があって、泉谷さんが「俺は拓郎の作る曲はすごいと思う。歌詞は陽水だけどな」と言っていたのを40年以上たった今でも妙に覚えています。  (ジャッピー!編集長)
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吉田拓郎さんの「ラジオでナイト」が超面白い!

このところ、当ブログで「村上RADIO」、「吉田拓郎のラジオでナイト」とラジオ番組のことを書いています。元々、ラジオが好きなのですが、最近はテレビに「観たい」気になる番組がほとんどないこともあって、もっぱらラジオ・デイズです。一昨日も書きましたが、中でも「吉田拓郎のラジオでナイト」は一番楽しみにしている番組です。
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70歳を超えた拓郎さんものびのびとトークしているし、60分というのがちょうどいいサイズです。2017年4月に始まって、僕は1回も欠かさず耳を傾けています。
吉田拓郎さんは1970年代から80年代初め頃まで深夜放送をやっていて、TBS「パック・イン・ミュージック」、文化放送「セイ!ヤング」、ニッポン放送「オールナイト・ニッポン」すべてでD.J.をつとめています。そんな拓郎さんですから、この「ラジオでナイト」がスタートするとき、レギュラー番組を持つのは最後と位置づけ、「最終章はやっぱりラジオで締めくくりたい。ラジオは僕にとってとても大事な青春です」とおっしゃっていました。番組は、リスナーからの手紙、メールを読んだり、拓郎さんの日常なども話されますが、自分が作り、関わってきた音楽についての話が多いのもファンとしては嬉しいです。スタジオにはギターを持ってこられて時々、鳴らします。また、生歌を披露したときも何回かありました。
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そして、この番組では拓郎さんが自宅から発掘した「レア音源」テープをかけてくれることがあるのがファンとしては聞き逃がせないのです! 今までの放送で特に印象に残っているのが、拓郎さんが広島の高校生だったときに、演劇部(だったかな?)の女子と一緒にデュエットした「ヘイ・ポーラ」や拓郎さんの作った曲をやはり同級生の女子が唄ったテープです。50年以上昔、まだプロでも何でもない高校生の唄、それでもどこか拓郎さんの原点みたいなものがあるような感じで貴重な音源でした。他にも大学生時代に組んでいたアマチュア・バンド「ダウンタウンズ」で拓郎さんがオルガンを演奏した「青い影」のカヴァーなどもかかったり、未発表曲や既発曲のデモ・テープ、録音のときの裏話など興味深いお話がいろいろ聴けるのです。
「村上RADIO」で村上春樹さんがご自身の i-pod に入っている曲をかけましたが、拓郎さんもi-podに好きな曲を入れていて毎日寝る前に聴いているそうで、それを番組スタート時から「マイ・フェイヴァリット・ソング」というコーナーで披露していました。これがヴァラエティ豊かで、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の次の週が、橋幸夫さんの「潮来笠」だったり、パーシー・フェイスの「夏の日の恋」がかかるかと思えば三波春夫さんの「大利根無情」がかかったり、その幅広い音楽の好みがまた面白いのです。  (ジャッピー!編集長)
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偉大なメロディ・メイカー、吉田拓郎さん

昨日の当ブログで書きましたが、吉田拓郎さんがD.J.をつとめる「ラジオでナイト」で「吉田拓郎が他の人に提供した曲ベスト10」のリスナー投票の結果が発表されました。もちろん、他にも良い曲がいっぱいありますから、とても10曲では収まらないと思います。
1位の「やさしい悪魔」を歌ったキャンディーズに提供した曲では「アン・ドゥ・トロワ」も良かったですね。両曲とも、キャンディーズのラスト・シングル「微笑がえし」の歌詞の中に盛り込まれました。10位のトランザム「ああ青春」は、主演コンビの松田優作さんと中村雅俊さんが対照的な性格のコンビで面白かった刑事ドラマ「俺たちの勲章」の主題歌、5位「いつか街で会ったなら」は雅俊さんが唄う挿入歌でした。この「俺たちの勲章」と同じ1975年にやはりドラマの主題歌だったものに山田パンダさんが歌った「風の街」があります。「あこがれ共同隊」というドラマで、西城秀樹さんや桜田淳子さんなど当時のアイドル歌手が出ていました。劇中、喫茶店のマスター役で出ていた山田さんのため拓郎さんが書いた曲で、これも良い曲だったなあ。「風の街」とは原宿のことで、♪表参道、原宿は~懐かしすぎる友だちや、人に言えない悲しみすら~風が運んでしまう街~とすぐに口ずさめます。西城秀樹さんといえば「聖・少女」という曲が拓郎さんの曲で、松本隆さんの歌詞ともマッチしてこれも好きな曲です。

いわゆる歌謡曲の世界に拓郎さんが提供した曲で、僕が初めて聴いたのは由紀さおりさんが唄った「ルームライト」だったと思います。字余りの歌詞でまさに「フォーク・シンガー・よしだたくろう」の曲調は当時の歌謡番組ではやはり異色という感じで、歌唱力のある由紀さんでないと歌いこなせないだろうなあと思ったものです。歌詞は「不倫」を描いていて、一場面を切り取ったようなものでこれも画期的でした。この作詞を手掛けた岡本おさみさんと組んで作った「襟裳岬」(森進一さん)は大ヒット、ついにレコード大賞を受賞。「ラジオでナイト」で拓郎さんはレコード大賞授賞式に何を着ていこうかと悩んだあげくGパンで行ったと話されていました。
拓郎さんの曲はメロディがいいのは勿論ですが、ちょっと聴いただけで分かる「拓郎調」と呼べるオリジナリティがあるところがスゴイです。他に僕が好きな曲に、東映の女優だった松平純子さんの歌った「両国橋」、「かぐや姫」のちょっとコミカルな(歌詞・伊勢正三さん)「僕は何をやってもだめな男です」があります。あまり目立たない曲ですが、どちらも「拓郎印」が刻印されているような、まさに拓郎メロディなので機会があったらお聴きになってください。
  (ジャッピー!編集長)
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きたさん
1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
ジャッピー!編集長
映画雑誌「ジャッピー!」を主宰する編集長
映画や昭和歌謡に底知れぬ造詣を示す昭和博士
ハピイ氏橋
昭和のあれやこれやをイラストにして解説。
独自の目線で昭和の面白さを掘り起こすイラストレーター
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