ハッピー昭和クラブ

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話 あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

昭和大好きブロガー達による、昭和歌謡と映画のこぼれ話
あの映画は、あの曲はまさにそんな事だったのか!と感動再び!

大河ドラマの途中降板『勝海舟』と『太平記』

大河ドラマ『いだてん』で、足袋職人の役がピエール瀧さんの逮捕、降板で三宅弘城さんに代わりました。何回か前から登場して、最初はだいぶピエールさんに寄せている感じがしましたが、昨日あたり観ると、そのピエールさんぽさが薄れてきて、三宅さんの演技になっていると感じました。交代直後は違和感が目立たないように、ピエール調でやって徐々に自分の色の演技にシフトしているのでしょう。ベテランらしい計算された演技です。観ている方も、もう違和感なく観れます。三宅さんは「大人計画」の事務所所属で、「グループ魂」にも参加していますから、宮藤官九郎さんとのコミュニケーションもじゅうぶんとっているのでしょう。ちなみに『少年メリケンサック』(2009 宮藤官九郎監督)や『中学生円山』(2013 宮藤官九郎監督)といったクドカン映画にも出ていましたね。
まあ、ピエールさんは主役ではないのが幸いしましたが、過去の大河ドラマでは『勝海舟』で主演の渡哲也さんが病気で降板、松方弘樹さんが代わって演じたことがありました。このときは、最初だいぶ違和感がありましたが、交代したのが、スタートしてまもなくだった(たぶん3月頃)こともあり、後半の放送では、すっかり海舟=松方さんで観ることができました。もっと先、ドラマが佳境に入ったあたりだったら厳しいものがあったでしょう。(←当ブログ2017年1月27日「松方弘樹さんと渡哲也さんの不思議な因縁」もご参照ください)
また、当ブログ2017年1月28日「『勝海舟』から『前略おふくろ様』」に書いたように、この『勝海舟』では、萩原健一さんの演じる「人斬り以蔵」がとても印象的でした。新しい「岡田以蔵」像を作り上げたと思います。脚本の倉本聰さんはこの「以蔵」をゲイと想定していた(当時ははっきり表に出せなかった)そうで、ショーケンもナイーブな演技で応えました。
その萩原健一さんも、大河ドラマを病気で途中降板しています。1991年の『太平記』です。真田広之さんが主役「足利尊氏」を演じた作品で、ショーケンは「新田義貞」ですから重要な役です。ショーケンも『勝海舟』以来の大河出演ということで張り切っていたそうですが、耳のうしろに腫瘍ができてしまいやむなく降板したのです。朝起きて真っ直ぐ歩けないほどで、以降、右耳はほとんど聞こえなくなってしまったそうです。
ショーケンに代わって「新田義貞」役をやったのは根津甚八さん。僕は残念ながら、この『太平記』を観ていなかったのですが、観ていた母は当時、「うまく似た感じの俳優を使うものだね」と感心していましたから、成功だったのでしょう。ショーケンは根津さんのことをとても買っていましたから、自分の代役に推薦したのかもしれません。 (ジャッピー!編集長)

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実録・1998年7月4日 マリン・スタジアム

昨日の当ブログ「追悼・近藤昭仁さん」で、「千葉ロッテ・マリーンズの18連敗」について触れましたが、僕はこの1998年6月13日から7月8日にわたった記録的連敗のうちの1戦をスタンドから観戦しています。
当時、僕の勤務地は「幕張」にあり、職場の近くに「マリン・スタジアム」があり、年に2、3回は観戦に訪れていました。いわばご当地のチームですから、この連敗も気になっていました。仕事が忙しく、土曜日のナイターにようやく出掛けることができました。同僚と一緒に「マリン・スタジアム」に行ったのが7月4日(土)で、「ダイエー・ホークス」戦でした。その前日まで14連敗という状況でしたが、ライトスタンドはマリーンズ・ファンが埋め尽くしていました。マリーンズ・ファンは当時、もっとも熱狂的な応援で知られていましたが、この日はいつも以上の熱い声援で声をからしていました。
この日の試合は2回に2点をとられますが、すぐ裏に2点とって追いつき、3回には2点追加してリードを奪います。いい試合展開ですが、これだけ連敗を続けていると「大丈夫かな……2点のリードでこのまま行くはずないよな……」と思ってしまうのです。戦っている選手もそうだと思いますが、悪い方へ悪い方へと自らを追い詰めてしまうのです。その悪い予感が当たってしまい、7回にリリーフ・ピッチャーが崩れ4点とられ逆に2点のリードを許します。ところが、この日は9回裏に2点とって同点に追いつきます。このときの大歓声はすごかったです! しかし、ここで一挙に逆転、サヨナラ勝ちまで持っていけないのが、連敗中のチームの勝負弱さです。
延長戦に突入し、10回は両軍無得点。11回に入るところで僕たちは球場をあとにしました。もう23時になってしまい、東京に住む僕も埼玉在住の同僚も、終電に間に合わなくなってしまうのです。試合を気にしながら球場の外に出たとたん、「ワァ~」~という悲鳴のような声が球場から聞こえてきました。このときのことは忘れられません。ダイエーが11回表に得点をあげたのです。結局、救援投手が底をつき、磯投手というルーキーが登板し、4点とられて負けてしまいました。新人ピッチャーでは荷が重い場面でした。5時間の熱戦の末、15連敗でパ・リーグのタイ記録となってしまいました。自分たちが球場をあとにした途端に点をとられたので、まるで僕たちが悪い流れを作ったような気持ちになってしまいました。翌日も負けて16連敗で日本タイ記録。そして、7月7日は神戸のオリックス戦で、有名な「七夕の悲劇」(=黒木投手が勝利目前、9回2死に同点ホームランをくらい、結局延長戦で負ける)があり、とうとう17連敗の新記録となってしまいます。8日にも負け、18連敗となってしまったのでした。
15連敗の日、僕が球場を出た直後、ダイエーに飛び出した3ランを放ったのがダイエーの井口選手です。現在、ロッテの監督です。当時のロッテのメンバーで今も現役なのは福浦和也選手ひとりとなりました。(福浦選手は二軍打撃コーチ兼任で、軸足はコーチ業) そして、僕も31年間勤めた職場を去り、それ以来マリン・スタジアムにも足を運んでいません。時は確実に流れて、あの連敗中にスタンドに集まり、同じ時間を過ごした人々それぞれにもいろいろな人生の紆余曲折があったことでしょう。
(ジャッピー!編集長)
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追悼・モンキー・パンチ先生 初期のルパンはハードボイルド

まだ「平成」だった今年の4月11日に漫画家のモンキー・パンチさんが亡くなりました。81歳です。近年は、大学の客員教授や、マンガやアニメの学校の顧問として後進の指導をしていると聞いていましたが、残念です。
モンキー・パンチさんといえば、もちろん「ルパン三世」ですが、「漫画アクション」で初めて読んだとき、まずはそれまでになかった絵柄に目をひきました。それまでの「マンガ」とは異なるアメリカン・コミック調の絵、しかも「モンキー・パンチ」という名前。いったい、どんな人が書いているのだろう?と思いました。「漫画家」といえば、「トキワ荘」的な座り机にねじり鉢巻きで締切に追われている……というイメージを持っていた1960年代後半ですから、まるで違う雰囲気のイラスト的画風に、カタカナの名前。後年、読んだ記事で「当時の編集長に付けられたペン・ネーム」で、その編集長には「どの国籍の人が書いているか分からなくする」という戦略があったそうですから、僕のように感じた人間がいたというのはその狙いが見事に当たったわけです。ちなみに、ご本人は「モンキー・パンチ」という名前に抵抗があったようですが、「ルパン三世」が当たり、改名できなくなったそうです。
そして、絵と同様に、そのストーリーにも目をみはりました。子ども向け雑誌ではなかったせいか、ハードボイルドでちょっとエロチックなまさに大人のコミックという感じでした。当ブログ5月9日にも書きましたが、ルパンを追う「銭形警部」を見たとき、そのヴィジュアルが『ブラック団』(つのだじろう先生)の「ヒゲトラ」刑事を思わせました。ちなみに、モンキー・パンチさんは「トムとジェリー」の大ファンで「ルパンと銭形」の掛け合いは「トムとジェリー」を反映しているそうです。
好評を受けて、日本テレビでアニメ化されます。僕も観ていましたが、この最初のアニメ・シリーズはかなり原作の匂いを再現していました。ところが、視聴率は惨敗で打ち切りとなってしまいます。ずっと後年も、「探偵物語」の企画の際、「ハードボイルド」はお茶の間ではウケないと、主演の松田優作さんがコミカル路線を提案したぐらいですから、まだ、この時代こういった「ハードボイルド」タッチは受け入れられなかったのでしょう。まして日曜日のゴールデンタイムという時間帯、当時は家族、親子そろって観る時間だったのです。「早すぎた」ハードボイルドが再放送で評価が高まったのは有名な話ですが、それで作られた第2シリーズが始まったのは1977年。何と、最初のシリーズが打ち切りになった5年後です。それでも、「ハードボイルド」に危惧もあったのでしょう。かなり、スラップスティック調となった印象があります。ルパンのキャラクターもかなり人の好い感じになっているし、峰不二子も悪女度が薄まったように感じました。子どもも観るアニメという風にターゲットを下げたのでしょう。ルパンの声を担当した山田康雄さんはアドリブも多く、ルパンのキャラクターに大きく影響を与えたこともあるでしょう。結果的にこれが功を奏して、多くの人に愛される「ルパン」となったわけです。
キャラクターがひとり歩きしたり、変化していくということはよくあることですし、実際、アニメ以降はモンキー・パンチさんもルパンを山田さん寄りに描いていたといわれています。しかし、最初の「漫画アクション」連載時のルパンとは別人のようで、僕としてはちょっと複雑な気持ちです。
新しいテイストの漫画を創造し、僕たちを楽しませてくれたモンキー・パンチ先生のご冥福を心よりお祈りいたします。  (ジャッピー!編集長)
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追悼・近藤昭仁さん 「これから20連勝してやる!」

今年の3月27日に、近藤昭仁さんが亡くなりました。80歳です。近藤昭仁さんは、高松一高から早稲田大学に入り、優勝にも貢献。1960年(昭和35年)に「大洋ホエールズ」に入団し、背番号1を背負います。この1960年というのは、西鉄ライオンズの黄金時代を築いた魔術師・三原脩さんがホエールズの監督に就任し、前年最下位から優勝という離れ業をやってのけた年です。大毎相手の日本シリーズもすべて1点差で4連勝のスイープで日本一と三原マジック炸裂の年でした。近藤選手にとって三原監督は同郷、同じ早大出身ですが、いやそれだけに厳しくされて、ずいぶん罵倒されたようです。しかし、近藤さんは体格は小柄ですが、気が強く「なにくそ」と食い下がり、見事にセカンドのレギュラーを獲得。日本シリーズでも4試合のうち2試合で決勝打を放ち、新人ながらMVPに輝きました。今でいう「持ってる」男だったのです。
ちなみに近藤さんの奥様は、新東宝などで活躍された北沢典子さん。あの可憐なお姫様と結婚するとは、こちらの方も「持ってる」男だったのですね。
ところが、「監督」としては不名誉な記録を作ってしまいます。古巣の「横浜ベイスターズ」で3年間、監督をやったあと、1年おいた1997年「千葉ロッテ・マリーンズ」の監督に招かれます。最下位に終わった1997年の翌年、1998年に悲劇は訪れます。ペナントレースも中盤に差しかかった6月13日から連敗が続き、引き分け1試合をはさみ、何と18連敗のプロ野球記録を作ってしまうのです。この時期にストッパーの河本投手を故障で欠いたのが大きく、リードしても後半逆転をくらうことが多かったの原因です。特に延長に入ると弱く、連敗中、延長までいった5戦のうち、引き分け1つであとは負け。明らかに抑えの不在が響きました。途中で先発の「ジョニー」こと黒木投手を抑えに回したもののまた負けてしまうという悪循環でした。さらに、ここまで連敗が続くと、プレッシャーがかかり「今日も逆転されるんじゃないか……」とビビッて固くなってしまったのです。スポーツ・マスコミも負けがこむにつれて監督のまわりに集まりはじめ、近藤監督もイライラが高まり「人が困っているときに写真を撮って楽しいのか!」と怒鳴って、カメラマンを突き飛ばしたりということがあった記憶があります。
連敗は7月8日まで続いたので、約1か月、白星がなかったのです。打つ手はみな裏目になり、近藤監督は本当に悩まれたと思います。並みの神経なら、「休養」を考えちゃうところだと思いますが、投げ出さなかったのがスゴイです。当時の新聞にも「逃げ出すのは楽だが、責任持って仕事はやる」ときっぱり述べています。7月9日に小宮山投手の完投で連敗ストップしますが、このときのコメント、「これから20連勝してやる!」というのが、いかにも気が強い近藤監督らしいですね。
もちろん、この年、マリーンズは最下位だったのですが、18連敗くらった時点で「23勝43敗1分け」の「借金20」だったのですが、シーズン最終成績は「借金10」まで縮めたのです。20連勝はできませんでしたが、いかに最後まであきらめずに指揮を執ったかが分かります。
そんな闘将だった近藤昭仁さんのご冥福を心よりお祈りいたします。  (ジャッピー!編集長)
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元祖カープ女子! 有馬三恵子さん

昨日の当ブログ「追悼・有馬三恵子さん」で書いたように、「南沙織」さんの名付け親にして、デビューから14作のシングル盤の作詞を手掛けた有馬三恵子さん(ちなみに作曲はすべて筒美京平さん)ですが、「私の一番の宝物」と語っているのが、広島カープの応援歌「それ行けカープ」です。そう、♪カープ、カープ、広島カープ~ と唄われるあの曲の作詞をされたのが有馬三恵子さんなのです。
有馬さんは山口県防府市出身ということもあり、カープのファンです。熱狂的ファンで知られる雑誌「酒」の編集長・佐々木久子さんの「カープを優勝させる会」にも入っていて応援されていました。元々、高校野球も好きで、どこかの校歌でも書けたらいいと思っていたところ、思いもかけず、レコード会社から広島カープ応援歌のオファーがあったそうです。二つ返事で引き受けたものの、詞ができるまでは相当に苦しんだそうです。有馬さんといえば、南沙織さんに代表されるように、その多くが女性歌手の歌う作品でした。昨日の当ブログで紹介した「小指の想い出」、「他人の関係」の他にも、小川知子さんの「初恋のひと」(1969)や、風吹ジュンさんが舌ったらずに歌うデビュー曲「愛がはじまる時」(1974)とか。そういえば、あまり、男性歌手の曲って浮かばないですね。浮かぶのは、布施明さんの「積木の部屋」(1974)ぐらいです。(たしか、この歌詞を基に有馬さんが小説みたいなものを書いていた記憶があるのです。歌のノベライズというのでしょうか) ですから、プロ野球チームの応援歌は勝手も違うし、大好きな球団だけに「私の作った歌のせいで弱くなったなんてことに絶対にしたくない」と自分にプレッシャーもかけたのでしょう。机の前に正座して、言葉を紡いだといいます。そのときの有馬さんの心境は「三島由紀夫さんが切腹したときの“檄文”を書くような気持ち」だったとのちに回想していますから、相当なものです。そんな気合十分で作られた「それ行けカープ」、見事に格調ある言葉でチームを鼓舞する歌詞になっていますね。
かくして「それ行けカープ」が完成したのが1975年夏。野球ファンで賢明な読者諸兄はお分かりですね。この1975年はカープ初優勝をとげた年なのです! その夏といえば、オールスター戦で山本浩二さん、衣笠祥雄さんのお二人が2本ずつホームランをかっ飛ばし、「赤ヘル旋風」と呼ばれたのです。まさに、それと時期が重なるようにリリースされた「それ行けカープ」は、優勝に向かってのチームの快進撃とともに売り上げを伸ばし、広島を中心に中国地方だけで30万枚が売れたといわれています。
たしか、後楽園球場でジャイアンツを破って初優勝が決まり、熱狂の渦となった広島で、駅前だったか市民球場前だかで、有馬さんがファンに胴上げされたのをスポーツ新聞か、週刊ベースボールで読んだ記憶があります。自分が応援歌を書いた年に優勝とは本当に嬉しかっただろうなあ!
昨年までセ・リーグ3連覇のカープの試合もよく観戦されていたそうですから、自分が40年以上前に作った応援歌が、「カープ女子」で赤く染まった満員のスタンドで歌われるのですから「私の一番の宝物」と思うのは当然ですね。今年は、まだカープは本調子ではない(やはり丸選手の移籍が大きいかなあ)ですが、天国の有馬さんのためにも頑張ってほしいです。 (ジャッピー!編集長)
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1975年「空飛ぶ鯨」でデビューしたちゃんちゃこのメンバー。デビュー40周年を経て昭和の素敵な時代の歌や出来事を再発見
ジャッピー!編集長
映画雑誌「ジャッピー!」を主宰する編集長
映画や昭和歌謡に底知れぬ造詣を示す昭和博士
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昭和のあれやこれやをイラストにして解説。
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